【福音宣教】  伝道礼拝 先の者が後になり後の者が先になる

あなたは私と1デナリの約束をしたではないか」(マタイ20:13) 

202405616

ユダヤの国ではブドウ園の持ち主たちは8-9月の収穫の季節になると人手が足りなくなるので、日雇い労働者を雇うために朝から町の広場へ行って労働者を集め回ったそうです。このたとえ話のブドウ園の持ち主も、朝6時から町の市場へ出かけて行って、人を集めました。一日の賃金は1デナリ、約1万円の契約を結んでブドウ園に送り出しました。それでもまだ足りないので9時にも、お昼12時ごろと午後三時にも出かけて行って雇い入れた。ところがなんと5時ごろにまた出かけて行って日没まで1時間しかないにもかかわらず、その人を雇ってブドウ園に送り出しました。

1日の仕事が終わり、賃金を支払う時間になった。1時間しか働いていない最後の人から賃金が払われた。驚いたことになんと1デナリが渡されました。本人もびっくりしたでしょうが、周りの者がざわつきました。え!! 1時間で1デナリも渡された、時給1万円! 主婦で牛丼スキヤでパートで働いても時給1020円! 夢のような時給じゃないですか。さっそく妄想が始まりました。じゃあ俺たちは3デナリかな、それとも6デナリかな、昼休み休憩が入るので8デナリかな、ひょっとしたら11デナリ、これはラッキー!とばかり勝手に想像を膨らませたことでしょう。ところが朝6時に来てこの炎天下の中、一生懸命、11時間も働いた人たちにも結局1デナリが渡された。「1デナリしか渡されない!」納得がいかないため、雇い主に「この最後に来た連中は1時間しか働いてないのに1デナリももらった。1日中働いた俺たちには1デナリしかもらえない!おかしいじゃないですか」と思わずつぶやき文句を言い始めました。わかりますよね、この気持ち。皆さんが最初に雇われたグループに属しているとしたら、やっぱり黙っておれないでしょう。ここに人間の罪深さを考えさせられます。

1. 罪

・第一に欲深さ、第二に自分勝手な思い込み、第三に感謝をすぐ忘れてしまうこと。大阪の海遊館や京都水族館にいかなくても、あちこちでフグやハリセンボンのように「ぷー」と膨れる、カニのようにブツブツ泡を吹きだす、タコやイカのように真っ黒な墨を周囲に吐き散らす姿を見物できます。そしてこれらの3つは、他人と自分とを見比べてしまう、比較するところから始まる。シュバイツア博士は「万事がおかしくなるのは比較をすることにってである」と語っています。
比較することを意識しないようなとき、何も持っていなくても貧しくても不幸だとは思わず、人は幸せに生きることができます。長屋に住んでいた子供時代、テレビも洗濯機も冷蔵庫も家にはなかった。大家さんだけがテレビを持っていた。子供たちは10円玉握って朝30分だけ月光仮面を正座して見せてもらった。でも大家の子がうらやましいとは少しも思わなかった。あるとき父親が社長の家に呼ばれた。大きな家のきれいなリビングのテーブルの上の、ガラスのお皿に、なんとバナナが房ごとおいてある。私の子供時代は、年に1回だけ遠足の時に、1本だけ買ってもらえた。よっぽど私がじっと見てたのでしょうね。社長が「好きなだけ食べていいよ」と言ってくれた。「社長ってすごい、この家の子だったら毎日バナナが食べられる」と本気で思った。人生で比較することを最初に学んだ瞬間でした。

しかも、一番残念なのは、最後に雇われた仲間に「お前、ほんとうによかったな!」と肩を抱いて一緒に喜んでやることができなかった、心の狭さ、貧しさではないでしょうか。「喜ぶものと一緒に喜び、悲しむ者と一緒に悲しむ」(ロマ1215)という、あたたかい人間らしい仲間意識、心の絆を結ぶことができず、バラバラになってしまい、分裂、分断、対立が起きてしまうのは悲しいことです。

聖書は「欲が孕んで罪を生み、罪が熟して死に至る」(ヤコブ1:12)と、欲からはじまる罪の人生のゴールは「死」であると教えています。死には霊的な死、肉体の死、永遠の滅びの3つがある。霊的な死とは神のかたちに似せて創造された価値ある本来の「あなたがあなたでなくなってしまうこと。私が私の本来の魂を失ってしまうこと」を意味します。悩み、さ迷い、苦悩し、自分で自分を愛せなくなる、周囲の人をも愛せなくなる、生きる意味や価値がわからなくなる、生きていながら死んでいるような、悲劇的な人生といえます。

援助交際で補導されながら何の罪悪感も持たない女子高校生にユング派の心理学者でカウンセラーの河合雄先生は「あなたの魂が死んでしまうから」と諭したそうです。神が創造された本来の自分自身のいのちの輝きを失ってしまう。それこそが、聖書が教える「罪」の実相です。そんな私たちに聖書は罪からの脱出の道を教えています。「罪の支払う報酬は死である、しかし神のくださる賜物は、私たちの主キリストイエスにある永遠のいのちである」(ロマ623)と
真の神を知り、神が遣わされた救い主キリストを信じることから救いはもたらされます。私たちはまことの神様をあなたに知っていただきたいのです。

2. 神

イエス様はこのたとえ話を通して、天の父なる神様の愛を伝えておられます。夕方の日没までもう「1時間もない」というのに、それでもまだ「1時間もある」と、ブドウ園に招こうと出かけて行きました。誰がそんなことを実際におこなうでしょうか。

そもそも5時に雇われた人はそれまでどこで何をしてたのでしょうか。最初から働く気などさらさらなかったのでしょうか。朝は眠たくて起きれなかった、昼は暑いので家の中で涼んで昼寝でもしてたのでしょうか。農園主は6節で、彼に「なぜここにいるのか」(6)と問いかけています。ギリシャ語では「どうしてここにずっと一日中、立ち続けているのか」という意味になるそうです。つまり、彼も朝6時から広場で並んでいた。しかし9時にも12時にも雇ってもらえなかった。雇ってもらえなかったのには、それだけの理由があるからだと考えられます。見た目に貧弱でとても肉体労働に耐えられないとみなされたかもしれません。あるいは白髪交じりでいかにも高齢者と映ったのかもしれません。熱中症で倒れたら困る、栄養失調や貧血で倒れられたら面倒だ、重い物を持ち上げてぎっくり腰にでもなり治療費を請求されるかもしれない。これでは役に立たないとばかり、面倒な人を雇い、関わるのはごめんだとばかり、どんどん後回しにされた可能性が考えられる。

雇ってもらえないということは、その日の暮らしに困るという経済的な問題だけを意味しているのではありません。彼の存在が誰からも必要とされていないこと、忘れられ、見捨てられていたことを意味します。

マザーテレサが「人にとって一番悲しいこと、それは誰からも必要とされていないという孤独である」
と言いました。炎天下で汗水流して長時間働くことは確かに辛く厳しいことですが、それと同じぐらい、いやそれ以上に、誰からも必要とされないまま、声もかけられず、孤独の中に取り残され、置き去りにされたまま居続けることも辛く痛ましいことではないでしょうか。多くの人々が行き交う町の広場も、彼にとっては「居場所なき孤独な世界」だったのです。」
そんな彼に目をとめてくれたのはブドウ園の主人一人だけでした。彼を孤独でむなしい世界から救い出し、ブドウ園に招き迎え、働く喜びと仲間との絆と居場所を用意してくださったのです。

たとえ医時間しか働けなくても、ここがあなたの居場所だ、安らぎの場所だ。だから安心しなさいと、招き連れてきてくださったのです。作家のヒルティーは「幸福論」の中で、「人間の生まれてきた目的は、神を知ることでその90%を果たした」と語っています。愛の神がおられる。天地を創造され、愛と恵みに満ち、私はあなたを愛している、決して忘れることも見放すこともないと約束される真実な愛の神がおられることを知っていただきたいのです。

3. 救い

このたとえ話のポイントは、ブドウ園に招かれた人たちに同じ1デナリが渡されたことです。朝早くから招かれて来た人にも、夕暮れ時に来た人にも同じ1デナリ。長く働いてたくさんの収穫をもたらした人にも、1時間しか働けなくてわずかな量しか収穫できなかった人にも同じ1デナリ。つまりどれだけたくさんの収穫を得たか、どれだけ長期間熱心に働いたかという行いに関わらず、同じ1デナリが与えられたのです。もうこれは労働に対する「報酬」というよりは、恵みの「贈り物」と言った方がふさわしい。報酬はGIVR&TEKEの世界。贈り物は「GIFT」の世界です。報酬は必ず報いを要求しますが、贈り物は見返りを要求しません。

「あなた方は恵みにより、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの贈り物です」(エペソ2:8)。

この1デナリは、父なる神様が御子イエスキリストを通して、贈り物として与えてくださるまことの「救い」をあらわします。イエス様の十字架の身代わりの死によって罪の赦しがもたらされました、だから罪の呵責にもう苦悩しなくてよいのです。三日後の復活によって死に定められた体に、永遠のいのちがもたらされました。だから死がすべての終わりでないという真理に目が開かれました。複雑な人間関係、ストレスやプレッシャー、頑張りすぎて燃えつきてしまった、もう疲れ果てたという者に、人生の様々な重荷を下ろす安らぎの場と平安が与えられました。無力で失望しやすい私たちですが、その弱さの中で働く神の愛と希望が与えられ、弱い自分をあるがまま受け入れる真の勇気が与えられました。これを幸せというのです。人の幸福は持ち物の豊かさに比例するとは限りません。「神の賜物はキリストイエスにある永遠のいのち」です(ロマ6:23)

永遠のいのちとは、死後の世界、死の扉の向こう側にある「いのち」だけではなく、今ここで神と共に生きる日々の歩みの中にダイナミックに働く「いのち」をも指しています。

今、我が家ではキーちゃんという猫とキナコという名のチワプードルを買っています。持ち主の女性が癌のために亡くなったので、遺言であずかることになりました。長年、銀行員として勤めていましたが2度目の癌の再発で、60歳で退職せざるを得なくなり、ショックと失意の中で教会を訪ねてこられました。キリストを信じ、暗く閉ざされたこころに光が差し込んできました。頑張れるだけ自宅で療養されましたが、「今度、呼吸困難になって入院する時が、おそらく最後になります」と、身辺整理を始め、とうとうその時が来ました。病院に入院する前に教会で祈りたいという願いを聞き、平日でしたが信徒さんが教会に集ってくださり、教会の庭で讃美歌を歌ってお送りしました。その時、彼女は「私が今編んで、これで良いと思って自分で選んで決めてきたことの多くは失敗ばかりでした。でもこの教会へ神様が導いてくださったことは、私の人生の最大の成功でした」と、涙ながらに語られました。

生い立ちにおいても、家庭生活においても愛情薄き人生、失敗と後悔と失意の人生だったとしても、最後にイエス様のもとに招かれ、兄弟姉妹の良き交わりの中に、求めていた愛の絆を得られ、病で蝕まれた肉のからだに代わる栄光の体ととこしえのいのちをいただき、その顔は安らぎで輝いていました。入院して3週間後、天国へと旅立ってゆかれました。最後を看取った看護師が「やすらかなお顔でしたよ」と伝えてくださいました。

まとめ

人生には様々な悩みがあります。成功したか失敗したかで振り回された人も競争社会で乗り遅れて置き去りにされた人も、人の愛に破れた人もいます。厳しい生活環境やややこしい人間関係の中で、自分の外側が日々戦場になっている人もいます。一方、自分の心の中が、葛藤や自責や後悔や自己嫌悪や他者への怒りや憎しみで戦場になっている方もいます。しかし、救い主キリストはあなたの人生を変えてくださる、回復してくださる。平安をもたらしてくださる。「誰でもキリストにあるならばその人は新しく造られた人です」(2コリント517) 新しく造られることを新生と言います。新しい人生という言葉に「な」の字をどこかに入れてください、すばらしい言葉が生まれます。あたらしい人生は→そのまま「あなたらしい人生」へと豊かになる。神様の招きの時はその人によって様々です。両親がクリスチャンで赤ちゃんの時から召され幼児洗礼を受けた人もいます。中学生高校生という一番、魂がみずみずしい時に救いを受けた人が最も多くいます。社会人になってさまざまな人間関係や理想と現実とのギャップに苦悩して教会を訪ねてくる人もいます。中高年の危機と言われる午後3時の昼下がりに救われる人も少なくありません。人生の夕暮れ時、思いがけない病気になったり、伴侶を失ったり、これからの老い先を考えて不安や頼りなさから救いを真剣に考えだす人もいます。生きてるかぎり、神の招きは続きます。もし今日、「さあ、私の農園に来なさい」と、神様の招きの声を聴いたなら、今があなたの時です

贈り物としての天国のデナリを、神様はあなたにも渡したい、与えたいと心から願っておられます。1デナリは報酬ではありません。贈り物です。受け取るにはふさわしくない罪深い者であっても、だからこそ、「感謝していただきます」と、信仰の手を伸ばして、受け取っていただきたいと願います。受け取るに値しない罪深い者がと今、言いましたが、神様の目から見れば、贈り物を受け取るに値しない人などは一人もいないのです。すべての人を神は慈しみ、愛しておられるからです。あなたを癒し、あなたを救い、あなたを本来のあなたに回復させ、自分自身を愛する喜びを与えたいと願っておられます。神に愛されていない人などはこの世界に、一人もいません。だからあなたもいただいてください。神の国では「後の者が先になり、先の者が後になり、結局、みんなが等しくゴールするののです。先だの後だの何の区別もなく、地上の競争意識や、優劣から、完全に解放され、神の家族として「よかったね」と、肩を抱いて喜び合える、恵みの世界へ招かれるのです。

「御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」ヨハネ3:16

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