【福音宣教】 エリコの遊女ラハブの信仰

「あなたがたの神、主は、上は天においても下は地において、神であられるからです」(ヨシュア2:11) 

20240630

エルサレム教会の牧師であったヤコブは「信仰にもとづいた行い」の大切さを繰り返し強調しました。口先だけの信仰ではなく、たとえ人格的には不完全未完成未成熟であっても、信仰による行い、愛の奉仕に、置かれた場所で励み、実を結ぶことを語り続けました。その典型的な例として、ヤコブは、アブラハムに続いて、旧約聖書に登場するエリコの町に住むラハブという女性を取り上げています。

1. 遊女ラハブ(ヨシュア記21-21

エリコの町に住むラハブは旅人のために宿を営んでいましたが、時には「遊女」つまり娼婦、売春婦として生活をしていました。イエスラエルの民をエジプトでの奴隷生活から解放したモーセでしたが、老年となり天に召されました。後継者ヨシュアは民を率い、いよいよヨルダン川を越えて、約束の地カナンへ攻め登ろうとしていました。彼らの前に立ちふさがるのは高く堅固な城壁に囲まれた要塞都市エリコでした。ヨシュアはエリコの町の実情を探るために2人の偵察兵を遣わし、情報収集に当たらせました。彼らは首尾よくエリコに忍び込み、素性の知れない不特定多数の人物が出入りしても怪しまれないラハブの「売春宿」に泊まりました。ところが城壁の見張番によってイスラエル兵がひそかに侵入したとの通報がエリコの王に届き、武装した警護兵たちが家宅捜査をするために宿に乗り込んできました。もしばれれば敵をかくまった裏切り者としてラハブの首が飛びます。ところがこんな緊急事態にも平然としてラハブは「何者か知らないけれど、ついさっきがたもう町を出ていきました。今ならまだ遅くないので急いで追跡すれば捕まえることができるかもしれない」と警護兵を欺き、偵察兵を屋上にかくまったのでした。遊女で売春宿を営む日陰の世界に生きるラハブは、多くの修羅場をくくりぬけてきた肝の据わった女性だったと思われます。なぜ彼女は命がけで敵であるイスラエル兵をかくまったのでしょう。

ヨシュア29-11にその理由が記されています。売春宿には各地を旅する人たちが出入りし、うわさ話や情報をもたらします。ラハブは「エジプトからあなたがたが脱出したとき、あなた方の神が海を二つに分け真中に道を備え、その後エジプト軍を海の藻屑にしてしまったこと、エリコに攻め上る前にすでにアモン人の2人の王と軍隊を根絶やしにして滅ぼしてしまったことを私は知っています。エリコの住民も王もイスラエルの攻撃を前に震え上がって戦意を喪失しています。しかし私は、あなたがたの神、主は天においても地においてもすべてを統べおさめておられる真の神であると信じます」(211)と告白し、偶像の神々を信じる異邦人たちが住むエリコにおいてただ一人、イスラエルの神、天地の造り主、万軍の主である神を信じていたのでした。偉大な神の前には、エリコの王も無力であり、堅固な城壁さえも崩れ去るであろう。だから「私の父、母、兄弟姉妹、親族すべてを生かして死と滅びから救い出してください」(213)と祈り求めたのでした。

ラハブの命がけの行動の背景にはこのような真の神への信仰と家族・親族への愛があふれていたのです。ユダヤ人ならだれもが知っているこの歴史的事実を取り上げて、ヤコブは「行いの前に信仰があり、信仰は恐れを超えて愛の行動を生み出す。信仰と行いは一体である。行いのない信仰は空しい」と強調したのでした。

2. 遊女ラハブと家族の救い

ラハブの信仰と願いを聞いて、偵察兵は「あなたの家の窓に赤い紐を結んで目印としなさい。あなたの宿にすべての家族と親族を集めなさい。私たちが総攻撃をかけるとき、窓に赤い紐が結ばれている家は必ず守られる」と約束しました。ラハブはこの約束を信じ、城壁に組み込まれた彼女の家の窓からロープをつるして、二人を城外へ無事に逃しました。

ヨシュが率いるイスラエルがエリコを攻め落とした時、窓に赤い紐が結ばれていたラハブに家に集っていた家族と親族は全員無事、救出され保護され、滅びから救われたのでした。新約聖書においても遊女ラハブの信仰は高く評価され、ヘブル11:31では「信仰によって遊女ラハブは偵察に来た人々を穏やかに受け入れたので、不従順な者たちと一緒に滅びずにすみました」と、彼女の信仰と名は後世にまで語り伝えられたのです。

3. 信仰に生きたラハブ

ラハブは偶像の神々を信じるカナン人、エリコの住民でありながら、耳にしたわずかな情報から、イスラエルをエジプトから解放し、40年に及ぶ荒野の生活を支え導き続けた天地の造り主である、真の神の名を信じました。エリコの町でただ一人だけ、神を信じ、家族と親族を救いへと導きました。信仰とは返す返す、多くの知識をもって納得し、受け入れるものではなく、たとえ十分わからなくても「受け入れ、信頼し、委ねて、待ち望むこと」とあらためて教えられます。ラハブは人々からさげすまれ、同じ女性仲間からも白眼視される卑しい身分の遊女でした。不思議なことに夫や子供たちの名が出て来ません。独身だったのか、貧しくて遊郭へ売られたのか、夫を亡くして生きるために身を落としたのかわかりません。肝っ玉の据わった女性ですから、才覚が有って売春宿を経営していたのかも知れません。私たちが知りえない悲惨な、痛ましい過去が彼女にあったことでしょう。しかし過去が何であれ彼女は、父母兄弟姉妹、親族のことを忘れることなく覚え、彼らの救いを祈ったことは事実であり、それは信仰から出る「愛の業」「執り成しの祈り」でした。

信仰による愛は、大切な家族の救いを祈り続けることからはじまります。

4. 信仰に生きる者には秘められた神のご計画があります。

カナン人である彼女はイスラエルの民と共に歩み、やがてサルモンと結婚し、二人の間にできた子供やがてルツの結婚相手となるボアズでした。ボアズとルツの間にオベデが生まれオベデの子がダビデの父エッサイでした。遊女アハブは、ダビデ王のひいひいおばあちゃん(曾祖父の母)にあたります。誰がそのようなことを思い描いたことでしょうか。ただ一人、天地の造り主、歴史を支配される真の神のみがご計画され導かれたのです。遊女ラハブは神の秘められたご計画の中で、キリストの誕生にまでつながる尊い使命を果たしました信仰に生きる者たちには「今はわからないことが多くあります」。だから私たちは、信じて委ねて待ち望んで歩み続けるのです。

5. 救いの赤い紐
ラハブにとって生きるか滅びるか、それはすべて窓に結ばれた赤い紐、赤いリボンにかかっていました。ラハブが生と死を委ねた赤い紐、リボンは、父なる神が私たちの永遠の救いのしるしとして与えてくださった、御子イエスキリストの十字架のひな型と言えます。「私たちはこの御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです」(エペソ17)。 

神の御子キリストの十字架、そこに流された十字架の血潮は私たちのすべての罪を贖い、赦し、審判と滅びから救い出し、神の民としての新しい歩みへと信じる者を導きます。窓に赤い紐が結ばれた家に集ったラハブの全家族は救出され、救いを受けたように、キリストの十字架の救いを信じる者は、その家族をも必ず救いへ導かれます(使徒16:31)。

HOME  NEXT