「ですから神に従い、悪魔に対抗しなさい」(ヤコブ4:7)
20240818
今年は、 日本が太平洋戦争の終戦をから、79年目となりました。 軍人・民間人合わせて310万人 の犠牲者(全京都市民の2.1倍)を出し、人類史上初の原子爆弾の長崎と広島への投下という悲惨な結末を迎えました。国家としての大きな過ちを通し、私たちは平和憲法を大切にしながら今日まで歩んできました。 多くの犠牲者の流された血の上に、 今の平和があることを心に覚え、歴史を風化させないように私たちも心に覚えましょう。
国と国との愛と信頼の関係を平和と言います。人と人との間の愛と信頼の関係を平安と言います。そして神と人との間の愛と信頼の関係を和解と言います。 ヤコブは平和、平安、和解と言った大切な絆を破壊してしまうその根源は「人間の自己中心的な欲望」であると断言しています。「欲が孕んで罪を生み、罪が熟して死に至る」(1:15)。これがこの世界の原則と虚しさとなっています。 しかしながら聖書は「罪から来る報酬は死です。しかし、 神の賜物はキリストイエスにある永遠の命です」(ロマ6:23)と、十字架による罪の赦しと、聖霊による我欲からの解放という新しい原理と希望を語っています。
さて、ヤコブは 今日の箇所7節から10節において、実は信仰に関する10の戒めを語っています。 ある学者はこれを新約聖書における「ヤコブ十戒」と表現しました。「神に従いなさい、悪魔に立ち向かいなさい、神に近づきなさい、手を清めなさい、こころを清くしなさい、苦しみなさい、悲しみなさい、泣きなさい、喜びを憂いに変えなさい、主の御前でへりくだりなさい。」 第1番目と第10番目が重要です。つまり信仰とは、「神に従うこと」そして「神の前にへりくだること」と定義されています。「神は高ぶるものを退け、へりくだる者に恵みを与えてくださる」(6)、このことは旧新約聖書を通して一貫している神の真実です。神の前に傲慢に立ち振る舞うことを「不信仰」と言います。 神の前におごり高ぶる者は退けられます。神様の前に謙虚に生きる姿、敬虔さ、へりくだり、 砕かれた心、 これを「信仰」と言います。
1. 2種類の「従いかた」
私たち日本人は「神に従う」という言葉を聞くと、神に絶対服従をすること、 まるでロボットのように支配されること、自分を捨てて何も考えず、何も疑問を抱かず、何も問うことをせず、思考停止状態に陥り、鵜吞みにして信じること・・・そんなイメージで捉えているのではないでしょうか。
聖書で用いられている「従う」という言葉には2種類あります。 奴隷が主人に絶対服従を持って従うことを、英語ではOBEY(upakouw upotassw)と言います。そこには自由意志などは全く存在しません。奴隷の人権や人格や尊厳などは全く顧みられませんでした。 しかし、神に従うという場合に用いられる動詞は、OBEYではありません。 主体的に自由意志に基づいて、自らの選択と意思で「ついていく」というギリシャ語AKORUSEWが用いられ、 両者ははっきりと使い分けられています。 イエス様が弟子たちを招かれた時にも、イエス様は英語ではFOLLOW ME(現在形 マタイ9:9) と呼びかけました。 「ついてくるかい」というニュアンスです。 招かれた人たちがついてきても、ついてこなくても、イエス様はゴルゴダの丘の十字架を目指して歩み続けます。ついてきたいと思うものはついてきなさい。 私が進む道の究極はカルバリの丘の十字架。私に従う者もまた私と共に自分の十字架を背負って歩むことになる。それでもついてくるならついてきなさい」 これがイエス様の御心でした。 「自分の十字架を負って、私についてきなさい」(ルカ9:23)と(AKORUSEW 現在形 FOLLOW) と呼びかけたのです。ペテロが3度も主を否み失敗したあと、復活したイエスはガリラヤ湖でペテロに会い、「あなたは私を愛するか」と3度尋ね、ペテロの愛を確認させ、彼の傷を癒し、再びFOLLOW ME(ヨハネ21:19)と招きました。通常なら「今度は失敗するなよ、完全に従え(OBEY)」が使われそうですが、ここでもイエス様は強制ではなく自由意思を問われました。なにごとであれ、させられ体験というものは実に弱くもろいものですが、自発的意思に基づいた行動は強いものです。崩すことは難しいものです。聖霊はそこに働きかけ支えてくださるのです。
さて、信仰の世界では、すなおに信じることと同時に、常に「問いかけ続ける」ことが必要とされています。何事も鵜呑みにせず、「なぜと問いかける」こと。信じてその後、思考停止になってしまうことは避けなければなりません。桃山学院大学の石川明人先生が「何かを真理だと信じ込んで疑わないこと、すなわち思考の停止が信仰なのだろか。決してそうではない」(キリスト教と日本人 p271)と語っています。神学者のティーリッヒも「信仰は疑うという要素をゼロにした思考停止のような姿勢ではない。懐疑を抑圧することはむしろその信仰を危険なものにしてしまう」とも警告しています。
人は自分に関係のない、どうでもいいことであれば いちいち疑うことはありません。たとえば、富士山の高さは3776m。本当にそうかなと疑ってわざわざ測量に行く登山者はいません。 3775 mでも77m でもどちらでもいい、あまり関係がないからです。ところが、キリストの十字架の死や復活については、常に「問いかけ続ける」必要があります。逆説的ですが疑う人は真摯に信じようとしている人でもあるのです。「神の存在」「真理とは」「永遠のいのちとは」「生きることの意味とは」と、聖書に向き合いながら、信じた後も祈りつつ、黙想しつつ、「問い続ける」真摯な取り組みが必要です。
私たちは聖書の教えは真理であると信じています。 すべてがそこから始まります。ですから「信じるだけで十分です」と私はいつも強調しています。しかしながら、大切なことは信じてそれで終わってしまい、以後思考停止になってはいけないということです。 キリストの十字架の死は私にとってどんな意味を持つのか、 復活は私の人生にとってどんな意味をもたらすのか、 生涯、「問い続けてゆく」こと、 考え続け、祈り続けてゆくこともまた、信じるというプロセスの中の重要な要素です。
イエス様も弟子たちに「沖へ出て網を下ろしなさい」(ルカ5:4)と言われました。大きな恵みを得るために、「沖へ出る、深みに漕ぎ出す」ことによって信仰は深められていきます。「思考停止という浅瀬」にとどまって、これで良しとしてしまうのではなく、聖書にそして自らに「問い続ける」ことを信仰は求めています。あなたの降ろす網に恵みの魚が満ち溢れる喜びがそこに用意されているからです。
2. サタンに対抗せよ
さらにヤコブは「神に近づきなさい」と教えています。失敗したり、誘惑に敗北したり、サタンに負ければ私たちは逃げ出したくなります。神様から遠く離れたくなります。隠れたくなります。でも逃げない、離れない、隠れない。それでも「神に近づいていく」。なぜなら神ご自身が「神の恵みの座」にキリストによって招いておられるからです。エデンの園でアダムとエバは神に背き、隠れてしまい2重の過ちに陥りました。「ですから私たちは憐みを受け、まだ恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に神の恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブル4:16) 神のそばにあるのは裁きの座ではなく、恵みの座です。そこにはキリストがおられます。だから遠ざかるのではなく、むしろ近づくのです。私たちが1歩近づけば、神は万歩近づいてくださいます。それがサタンに対抗する 第2の対策です 。
今日私たちは「神に従いなさい。主の前で へりくだりなさい」 という「信仰に関する」ヤコブの教えを学びました。 そして同時に「悪魔に抵抗せよ」 という教えを学びました。 それはキリストの勝利に堅く立つこと、そして神の恵みの座に、失敗した時こそ、いよいよ近づくことでした。
神は私たちを罪のゆえに遠ざけるお方ではなく、キリストの十字架の贖いを通して、「さあ、私のもとに来なさい」と招いてくださる恵みに満ちたお方であることをこころにとめおきましょう。
エペソ1:7 「私たちはこの御子のうちにあって御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです」