「兄弟たち、互いに悪口を言い合ってはなりません」(ヤコブ4:11)
20240901
「私の兄弟たちよ、悪口を互いに言い合うのはやめなさい」と命じています。現在形ですので、今、そうやって悪口を言い合っている現状が繰り広げられているようです。悪口と訳されたことばは「そしり」とも訳され、敵意をもって「後ろから噛みつく」という意味があります。英語ではバックバイト。面と向かって言い合うのではなく、背後でこそこそと鋭く非難する不誠実で、卑怯なやり方で、「陰口」とも言います。
すでにヤコブは4:1で欲から始まる口論や争いを諫めています。パウロもコリントの教会に宛てた手紙の中で「争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、混乱があるのではないでしょうか」(2コリン12:20)と懸念しています。いつの時代でも、人が集まるところ「噂話、悪口、陰口」の花が咲き乱れるのは避けようがないようです。
3人の人が集まって他の人の悪口を言い合い楽しんでいる。一人の人が用事があって帰ると、残った二人がさっそく帰った人の悪口陰口を言い合う。そのうちの一人が帰り、悪口パーティがやっと終わったかに見えたが、先に帰った二人がまた集まって残っていた最後の一人の悪口を言い合っていたという小話があります。
悪口、陰口は兄弟姉妹の交わりを傷つけ破壊してしまうゆえに、ヤコブはやめなさいと厳しく戒めています。ヤコブは誕生したまだ若く未成熟なエルサレム教会という共同体の交わりが損なわれることに心を痛め、教会を守ろうとしています。愛の中で建てられていく共同体のために互いが結びあい仕えあっていくことが、信仰が生きているしるしであり、「行いがない信仰は死んだ信仰」とさえ呼んだ真意なのです。
解決策 ①
11節で、ヤコブは兄弟姉妹をそしることは、律法をそしることである。兄弟姉妹を裁くことは律法を裁くことだと警告しています。ヤコブがここで用いる「律法」とは、神がモーセを通してイスラエルの民に与えられた「モーセの律法」(613の戒律のうち、248は「積極的戒律」行動を促す命令、365は「消極的戒律」行動を慎む命令)ではなく、神の御子イエス様が弟子たちに与えられた「唯一の愛の戒め」、(ヨハネ15:12)、新しいキリストの律法を指しています。ヤコブは兄弟姉妹を裁くことは、イエス様が与えてくださった隣人愛の戒めに背く行為であり、ひいてはイエス様ご自身をそしることそのものであると警告しています。神の子たちにとってイエス様をそしる、悪口を言うことは最大の罪ではないでしょうか。
解決策 ②
ヤコブは人を裁く権威を持つお方は神様ただ一人であると宣言します。人を罪に定めるか否か、死に定めるかいのちに定めるの決定権はただ神一人がお持ちになっています(マタイ10:28)。にもかかわらず、自分が裁きの座に着き、神に代わって人を裁くとはなんという「傲慢さ」でしょうか(12)と問いかけています。神が私たちに求めておられることは、高ぶりではなく、へりくだりなのです(6.10)。
「裁いてはいけません、裁かれないためです」(マタイ7:1)とイエス様は言われました。
「さばき」という言葉には、「見下げる」「非難中傷する」という意味があるます。この地上で生きている限り、私たちは不完全である誰ひとり完全で完成された人などはいません。罪赦された罪人にすぎません。いわば「工事中」なのである。ヘルメットをかぶって「ただいま工事中、ご迷惑をおかけします」とふかぶかと頭を下げている人が描かれた看板を工事現場で見かけます。あの看板こそ「天の御国の民」が掲げなければならないものである(中沢 p479)。
ヤコブは信仰の共同体である教会を深く愛していました。いつも彼の焦点がここに合わさっていました。
一人一人が孤立しているのではなく、家族として仲間として共同体を形成している。他人を理解し、受け入れあい、認め合い、同情し合い、慰め励まし合い、許し合い、痛みを分かち合い、助け合うことが求められている。それゆえ、誰一人、神のさばきの座に着く者があってはならない。他人をさばいてはならない。主の主であられる王なるキリストに、永遠の愛を持たれるキリストにすべてのさばきは委ねることを大切に考えたのです。牧会者としてのヤコブの祈りでした。
解決策③
悪口、陰口、誹謗、中傷は感染力、伝染力が非常に強いので、次々と広がり、連鎖反応を引き起こします。さらに聞いた者たちの免疫力も弱いので、すぐに感染してしまうものです。コロナウィルスが流行した時も、スーパースプレッダーと呼ばれる特別に強い感染力をもった人の存在が着目されました。どうすればいいでしょうか。あなたが最初の防波堤になることです。海岸に行けば、外海から次々とやって来る荒波を防ぐ防波堤が作られている。さらに防波堤の土台部分には大きな三角形のコンクリ―ト製の「波けしブロック」が幾重にも積まれている。あなたが防波堤、波けしブロックになればいい。スパーブロッカーにあなたがなる決心を持つことを、主イエスは願っておられます。あなたのもとで止めて広げない。拡大感染の連鎖をとどめる。そこで同調しないで「そうかな、私にはそうは思えないけど」と勇気をもって、一言、ことばにするだけでも防波堤の役目を十分、果たすことができます。人を恐れてはいけないのです。
解決策 ④ コミュニケーション技術
あなたの上から「悪口、陰口、そしり、誹謗、中傷」の波が降ってきます。まずあなた自身が「防波堤、波消しブロック」となる決心をする。でも黙っているだけではなくあなたも何か言いたくなります。沈黙はつらいものです。その時、人にではなく、神様に話しましょう。神様と語り合うことを「祈り」といいます。すべてのコミュニケーションの始まりは「祈り」です。
先ほど新聖歌41番を賛美しました。「人と人との心が通わず、乱れ争う、世界のために」と。ことばが通じず,心が通い合わない。乱れ争う世界の中で、祈りは真のコミュニケーションを生み出します。祈りがない世界は「無関心」という不毛の世界、闇の世界です。無関心ですから痛みも悲しみも怒りさえ感じません。相手の存在と苦悩を想像することさえしない世界です、愛が冷え切った世界です。祈りはそこにいのちを吹き込み、関係性を創りだします。祈りは兄弟姉妹、隣人愛という扉を開きます。祈りは「関係性・コンタクト」を生み出し、評価や価値判断や非難を含まないで、「事実をフィードバック」します。伝えた後で、次に「相手の話をじっくり聴きます」。一方通行は禁止です。なぜならば、すべての言葉や行動には意味があり、その人なりの真実があるからです。事実は一つでも人の数だけ真実はあります。だから「時間をかけて、相手の世界を理解する」努力を継続します。「自分の思い込みで小説を書くな」という名言があるのをご存じでしょうか。これらのプロセスを祈りは導き、神の御霊が忍耐と寛容さの実を結ばせてくださいます。
祈りがなければ、人はいとも簡単に、「先入観と思い込み」で相手を非難し、攻撃し、責め立て、裁き、否定し、言葉や行動だけでなく人格まで全面否定し、最後は拒絶と無視へとエスカレートしていきます。
ヤコブは「信仰による祈りは、病む人を回復させます」(5:15)と語っています。身体の病気だけでなく、精神的な傷も、人間関係の破れも、祈りは癒し、和解と回復へと導くと、ヤコブは疑いませんでした。主の御心はそこにあります。
ガラテヤ6:1-2 互いの重荷を負い合いなさい。そうすればキリストの律法を成就します。