「金持ちたちよ、よく聞きなさい。迫りくる自分たちの不幸を思って、泣き叫びなさい」(ヤコブ5:1)
20240922
5章からはヤコブは貧富の格差や差別の問題を、教会の中だけではなく、広く世界にまで視野を広げ、キリストの再臨を中心とした世界観を基盤として説いています。エルサレム教会の中にも、えこひいきや偏見、貧富の差、富める者の傲慢さなど、不公平で不合理なさまざまな問題がありましたが、世界に目を向ければさらに深刻で悲惨な問題が生じていました。その一つがローマ帝国における「権力と富による支配」と、そこから生じる「抑圧された人々の貧困問題」でした。
2000年経った現代においても状況は変わり映えしないようです。2021年NHKニュースでフランスの研究機関の報告書が紹介されていました。「世界人口の上位1%に当たるおよそ5100万人の富裕層だけで、世界全体の個人資産の37.8%、4割を保有している」「最貧国10か国はアフリカに集中しており、途上国を中心に格差が拡大」と報道していました。世界の大富豪1位はルイビトン・ティファニーなどを経営するフランスのベルナール・アルノー氏で34兆円、次いでテスラ―のイーロンマスク、アマゾンのジェフ・ベゾス氏、日本の富豪1位はユニクロの柳井正氏6兆3千億、世界29位。ちなみに東京都予算は約12兆、京都府が1兆円ですから、彼らの個人資産の巨額さに驚かされます。
世界中で7億6700万人、つまり10人に1人が極度の貧困状態 (一日当たり1.9ドル以下で生活している人) にあり、しかも、そのうちの約半数、3億8500万人が子どもであり、世界中の子供たちの5人に1人貧困。毎日2万1千人、4秒に一人が死んでいる。「大規模な富の配分なくして、21世紀の課題に取り組むことはできない」と結論づけているそうです。
1 迫り来つつある不幸(悲惨) (1節)
ヤコブは富める人々への厳しい批判と警告を預言者的に語っています。ため込んだ穀物は腐り、きらびやかの衣装は虫が食い荒らし、金銀にさえ錆がついて無価値なものなる。「神の審判の日が近づいている」と警告しています。3節では「終わりの日」5節では「屠られる日」6節では「主が来られる日」と繰り返し「神の審判」を警告しています。ヤコブ書は紀元40年代に記されたと言われていますから、ローマ帝国による紀元70年のエルサレム陥落と滅亡のおよそ30年前にあたり、まさに「迫り来つつある不幸」(現在進行形)という緊迫感をヤコブは感じ取っていたと思われます。
2. 富める人々の3つの罪状(4-6節)をヤコブは糾弾しています
1)賃金未払。富める者が働いている貧しい労働者を虐げ、権利を奪い、搾取している。搾取する側はされる側の利益を犠牲にし、不等な利益を得ている。旧約聖書では「賃金はその日のうちに支払うべ き」(申命24:15)と、厳しく戒められているほどです。
2)贅沢三昧な暮らし。 搾取した富を独り占めし、私利私欲に走っている。むさぼりと飽食で、からだのみならずこころも「肥大化」し、まるまる太っている。
3)義人つまりまじめに働いている正しい人の人権が無視され、多くの助かるべき命まで奪われ、殺されている。つまり富の蓄財の陰で多大な犠牲が強いられていることへの糾弾です。「金銭を愛することはあらゆる悪の根である」(1テモテ6:7-12)。富める者たちによって虐げられている彼らの叫びはすでに「審判者である神の耳に届いている」(4節)。速やかに神は裁きをくだすであろう。
3. 神の言葉である聖書は、この世の富める者、権力者、支配者に対して、あるいはそのような「富を追い求める人生」を追及する者たちに、3つの教訓を教えているのではないでしょうか。
1)第一は、神のさばきの日に備えなさい。「神の時」を自覚すべきであるとの教訓です。
この世界では、人の時とは別に神の時が刻まれています。2種類の時が刻まれています。キリストの再臨、万物が改まる時、大いなる審判の時に向かって、時が確実に刻まれています。聖書は警告しています。「安全だ安全だと言っているそのような時に、突如として滅びが襲いかかるであろう」(1テサ5:2-3)と。
2)第二は神の所有権を自覚することです。この世界のすべては創造主である、神のものであり、私たちは神から託されているに過ぎないことを覚えましょう
万物の造り主である主は、同時に万物の所有者です。すべてのものは神のものであり、所有権は神にある。言葉を換えれば、私たち人間は全被造物の代表として、神から世界を託されているのです。
人は託されたのであり、自分が獲得した自分の所有物ではありません。すべては神から託された贈り物であり、預かり物なのです。お墓の中まで持ち込むものではなく、神様にすべてをお返しするものです。この新しい自覚を持つとき、人生観が大きく変わるのではないでしょうか。
マラキ3:8では「あなたがたは神のものを盗んでいる」「呪われている」とさえ指摘しています。世界の貧困問題は、富の偏りにあり、富の分配の失敗にあり、悲惨な戦争や不毛な紛争の根本的な原因となっています。イエス様も、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」(マタイ22:21)と注意を促しています。
3)第三は神からの愛の奉仕、使命、ミッションです。
「神から多くを託された者の果たす使命は、多く与える者となるためである」ことを覚えましょう。
イエス様は「与える者は幸いである」(使徒20:35)と教えてくださいました。託された富を自分のものとして、自分の幸福のためにだけ用いようとしているのか、その富を用いて他の人々の幸せのために生かそうと考えるのか、神から託されたもので、あなたは何を果たしてきたのか、どのように御国と隣人のために用いて来たのかと、神様は問いかけておられます。
確かに一人一人に託されたものは、5タラント、2タラント、1タラントと異なります。しかし託されたものをどのように御国のために、人々の幸せのために、支援のために、共に生きるために、用いたのかが、神のみ前に問われています。
「おけら」のように自分の手元にかき集めるだけかき集めるようなどん欲な生き方をしたのか、惜しみなく与える人生、差し出す人生、ともに生きる生き方をしたのかが問われています。イエス様のご生涯は、まさに十字架の死に至るまで、与え尽くす愛の奉仕の人生でした。ヤコブ書の主題の一つは、「小さくされた者たち、貧しくされた者たちへの愛の奉仕」でした。彼らを思い見るやさしさ、兄弟愛の実践でした。
「これらの小さな者にしたことは、この私にしたことである」(マタイ25:40)
トルストイの「愛のあるところ、神もある」、副題「靴屋のマルチン」という短編がある。妻を亡くし、子供まで病気で亡くしたマルチンは失意の中で、酒浸りの生活。生きる意味も意欲も失っていた。ある日、巡礼者が訪ねてきた。彼に自分の悲しみを訴え、何の望みもない自分は早く死にたいと嘆いた。巡礼者は「自分たちには神様の仕事をあれこれ言う権利はないこと、そして神様に命を頂いたのだから、神様のために生きなくてはならない」と諭し、聖書を渡してくれた。聖書を読み始めたマルティンの人生が変わりはじめた。あるとき「明日、お前を訪ねる」との主の言葉を聞いた。ところが翌日、誰も訪ねて来なかった。家に来たのは、雪かき老人、赤子を抱えた貧しい女性、リンゴを盗んだ子供に対して激怒する老婆。彼らをあたたかく迎え、スープと着物を与え慰めた。
「マルチン! おまえには私が分からないのかね?」 彼は「誰ですか?」と尋ねた。すると「これが私だよ」と声がした。そこにはにっこり微笑む三人の姿が現れて消えた。その日、彼が開いた聖書には「これらの私の兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、私にしたのです」(マタイ25:40)と、記されていた。その時、マルチンはまさしくこの日、彼のところに救い主イエスが来られたことを知ったのだった。愛のあるところに神もおられるのです。
ガラテヤ5:6 「キリストイエスにあって大事なのは・・愛によって働く信仰なのです