「信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは死んだものです」(ヤコブ2:17)
「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分より優れた者と思いなさい」(ロマ12:10)
2024年2月18日から約9ヶ月にわたってヤコブの手紙からの説教を終えることができました。 わずか5章108節からなる短い手紙ですが、このヤコブの手紙から個人的にも教会的にも多くの恵みを新しく学ぶことができました。皆さんはいかがだったでしょうか。
私は最初の第1回目のメッセージで宗教改革者のマルチン・ルターが、ヤコブ書では「信仰による義」に対して「行いによる義」が強調されている。
そえゆえ無益な「わらの書」と呼んだことをお伝えしました。キリストの十字架も復活もここには一度も出てこない。イエスキリストの名さえ
二度出てくるだけ。「人が救われるのは行いによるのであって信仰だけによるのではない」( 2章24節)の言葉を根拠に、ルターはドイツ語の新約聖書を出版した時に、目次の中にも加えなかったそうです。
しかしながら、ヤコブ書はパウロが書いたガラテヤ書やローマ書のように「人がどうしたら永遠の命を得て救われることができるか」という救いの条件を教える「義認論」を目的とした書かれた手紙ではなく、キリストの十字架と復活を大前提としたうえで、イエスキリスト信じる「信仰によって神の子供とされた者たちが、与えられた地上の生涯をキリストの愛、御霊の愛に導かれながら兄弟愛と隣人愛に生きてゆくこと」を教えている手紙であると理解するならば、ヤコブ書の素晴らしさが見えてくると思います。
パウロは「ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められるということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです」(ロマ16:16)と、福音そのものを解き明かし、ヤコブは同じ信仰に生かされている者たちの日々の歩みを解き明かしているのです。
第1回目のヤコブ書からのメッセージで「わずか5章しかないヤコブ書ですから、1日に1回は通読しましょう。この書が私たちの信仰にとって「わらの書」で終わるのか、
豊かな「宝の書」となるのか実証したいものですね」と締めくくらせていただきました。
「兄弟愛を持って
心から互いに愛し合い 尊敬を持って互いに人を自分よりも優っていると思いなさい・・
喜ぶものとともに喜び 泣くものと一緒に泣きなさい」(ローマ12章10節と15節)は、パウロのみならずヤコブもまた伝えたかった最も大切なメッセージだったのです。
今日、ヤコブ書を1章から、改めて振り返りながら、各章ごとの大切なポイントを学んで参りたいと思います。
1章2節「 私の兄弟たち、様々な試練に会う時はそれをこの上もない喜びと思いなさい」 12節「試練に耐える人々は幸いです
‥いのちの冠を受けるからです」。ここで、ヤコブは「喜び」を強調しています。そしてこの喜びという言葉は「挨拶」という言葉の語源にもなっています。
つまり私たちは苦難や試練に対してできるだけ避けようとしたり、そこから逃れようとしたりしがちです。けれども、むしろ喜んで迎えてみましょう。つまり「試練君こんにちは」「困難さんおはよう」と挨拶をして、親しく迎えていく。それこそが苦難の中にある「私たちの信仰による勝利」ではないでしょうかと学びました。困難は回避すれば追いかけてきますが、迎え入れれば思いがけない良き贈り物としての価値をもたらしてくれるのです。
2章では1節 「人をえこひいきしてはいけません」。えこひいきという言葉は分け隔てる、偏り見るという意味を持っています。えこひいきはやがて、差別や偏見の温床となります。2章1節を学んだ日は、ちょうど5月19日ペンテコステ礼拝の日でした。神の御霊が教会に降り、様々な階級制度や差別や偏見に満ちた当時のローマ世界の中において、差別ではなくキリストにある平等、偏見ではなく愛と寛容な心を御霊は教会にもたらし、愛の共同体を誕生させました。生まれながらの古い私たちは、自分と異なる異質のものに嫌悪感や拒絶感を覚えて外に排除しようとします。けれども聖霊は常に差別偏見の壁を教会の中から崩し去ろうとしてくださる「恵みの御霊」です。
3章5節には、「舌も小さな器官ですが大きなことを言って誇るのです」とあります。
私たちは同じ舌を持って神を褒めたたえることができますが同時に、人を蔑み、人の悪口陰口を言い、人を貶め、人格を傷つける鋭い言葉を語ることもできます。小さな焚き火が山を燃やし尽くしてしまうように、私たちの舌は多くの失敗や過ちを招いてしまうこともあります。誰かの悪口を聞いても陰口を聞いても、あなたが防波堤となり、波消しブロックとなりましょう。
4章4節では 「世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか 世の友となりたいと思ったなら その人は自分を神の敵としているのです」と記されています。「世」とは、人間の欲望を中心に動いていく神なき世界を指しています。
そうした世の中に対して神の民の対応は5つの型があると言われています。埋没型、対決型、信仰を捨ててしまう棄教型、世の中の様々な異教的習慣をキリスト教的な伝統や文化に変えてしまう接ぎ木型、そして地の塩、世の光として生きていく生き方の、5つのスタイルがあることを私たちは学びました。塩は必ずしも大量を必要としません。少量であっても腐敗を止め、味を引き出し、生命の存続になくてはならない必須養分となっています。また光は、どんなに小さくても闇を照らし出していきます。ハスの花は、泥水の中でも白い花を美しく咲かせます。神の御霊が私たちの内に宿っているのですから「置かれた場所で誰でも自分らしい花を咲かせてゆく」ことができるのです。環境に支配されるのではなく信仰が環境を変えていくのです。世の友となることを選ぶよりは、神の友となる歩みを自ら選び取りたいものですね。
5章では7節。「主が来られる時まで耐え忍びなさい」。クリスチャン生活はいつもキリストが再び来られる日、再臨を待ち望む日々です。いつ主が来られるのか誰にも分かりません。ルターは「たとえ明日、世が終わろうとも、
私はいつものようにリンゴの木を植える」と言いました。この落ち着いた信仰の姿勢がたいせつです。ロシアの文豪
トルストイは「愛のあるところに神あり」という短編小説を書き、靴屋のマルチンの物語を記しました。妻をなくし子をなくした孤独な靴屋のマルチン。イエス様が「明日あなたのもとを訪ねよう」と語りかけました。ところが何事もなく1日が過ぎ去っていきました。今日、訪ねてきた人といえば、寒さの中で働く雪かきの労働者、赤子を抱いた貧しい母親、りんごを盗んだ少年をとっちめる老婆。彼らをマルチンはやさしくあたたかく迎え接しました。イエス様は訪ねてこなかった。その夜、聖書を開いた時、「マタイ25:40節で「これらの 私の兄弟たち、その最も小さなものにしたことは私にしたことである」とのイエス様の御声を聞くことができました。日々接する、小さくされた人々、貧しくされた人々の中にイエス様は共もうすでにともにおられるのです。
5章16節、17節では「信仰による祈りは病む人を回復させます」。
救われた人々の根底にあるのは、試練の中にあっても揺るがない忍耐と希望、隣人への愛、そして神への祈りです。これらの喜びに満ちた生活を私たちから奪いさるものはどこにもいません。なぜなら私たちの内なる御霊が、実を結ばせてくださっているからです。
私たちの心の中にまで手を突っ込んでこれらの喜び、平安、愛を奪い取ってゆくことは誰にも許されていません。祈りの学びの中で、朝の詩篇を読む会が礼拝の前に始まりました。また今月27日から 第2第4水曜日の夜8時か30分、ズームによる「病める人々のための祈り会」が始まります。 教会に新しい祈りの場が新しく開かれたことは私自身の大きな喜びとなっています。
改めてこのヤコブ書は、イエスキリストを信じて救われた者たちが、御霊の愛に促されて、兄弟愛、そして隣人愛の中に生きてい喜びを教えていることを、私たちは豊かに学ぶことができました。神様から受けた恵みは自分の中で自己完結してしまってはなりません。
神は惜しみなく与える方です。神様は素晴らしき贈り主です。天地の造り主である神様から受けた豊かな恵みを、私たちもまた他の人に分け与えていくことを、神様は私たちに求めておられます。私たちは神様から祝福された存在ですが、そだけではなく、周囲の人々への祝福の基とされていることを覚えましょう。
イスラエルには有名2つの湖があります。ガリラヤ湖と塩の海と呼ばれる死海です。この2つの湖の決定的な違いは「水が流れ出る川」があるか、ないかの違いなのです。ガリラヤ湖にはヨルダン川があり、水は豊かに南の低地へ注がれていきます。死海には注がれる水が流れ出る川がないため、魚一匹、草木1本さえ存在しない塩の海となっています。
キリストを信じて義とされた私たちは、愛に生きるものとされる中で、いよいよイエス様と出会い、信仰にいのちの息吹を吹き込んでいただくことができるのです。
「いつまでも続くのは信仰と希望と愛です」(第1コリント13:13)
次回からはマルコの福音書を礼拝で学びましょう。