「キリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから、ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たちへ。どうか、私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝し、あなたがたすべてのために祈るごとに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日まで、福音を広めることにあずかって来たことを感謝しています。」
(ピリピ1:1-5)

ピリピ人の手紙 1








今日からピリピ人の手紙の学びに入ります。

はじめに全体の概要をご紹介したいと思います。ピリピの町はギリシャのアレクサンダ−大王の父、フィリップ2世によって紀元前350年に築かれたマケドニア地方(現在の東ヨ−ロッパ)の都でした。紀元42年にはロ−マのオクダビアヌスとブル−トスが戦った古戦場でもあり、やがてオクタビアヌスが「ロ−マ皇帝アウグスト」になりローマ帝国を統治した時代には、「アウグストユリウスの殖民都市ピリピ」という誇り高い名をもって知られるようになりました。ピリピ人の手紙は、マケドニア地方の大都市に誕生した教会に宛てて、パウロがロ−マの獄中から書き送ったお礼の手紙であり、執筆年代は紀元前6162年といわれています。

パウロがこの手紙を書いた理由は、ピリピの教会員がローマで監禁されているパウロのためにエパフロテに託して献金を送り届けてくれたことに対して感謝を書き記すためでした。ピリピの教会は献金ばかりかエパフロテ自身をパウロの側で身近な生活の世話をするためにと遣わしてくれたのでした。獄中のパウロにとってどれほど大きな喜びとなったことでしょうか。ですから、この手紙には「主にある仲間たちへのパウロの感謝と喜び」が満ち溢れています。4章のあいだに16回も「喜び」ということばが使われています。パウロの中に満ちていた信仰による喜びと感謝をこの手紙を通して私たちも学ばせていただきましょう。

1 パウロの挨拶(1-3

手紙の受取人はピリピの教会に属する全ての信徒たちとなっています。パウロはピリピ教会の信徒を「聖徒」と呼んでいます。私たちは「聖徒」ということばから「聖人君子のようなりっぱな完全な人」を想像しがちですが、新約聖書において聖徒ということばが使用される時には、倫理性の高さや霊的な成長の度合いと関係がなく、「主のものとされているすべてのクリスチャン」を指すことばとして使用されています。
イエス様を信じ、バプテスマを受け、キリストのいのちに結び合わされ、聖霊を心のうちに宿しているすべてのクリスチャンが「聖徒」と呼ばれています。原語では「聖い」という言葉は「神様のために選び分かたれ聖なる神の所有となったもの」を指します。つまり、聖いのは私たち自身ではなく、私たちの所有者である神様ご自身なのです。

私たちクリスチャンは誰のものでもありません。永遠にイエス様のものとされています。イエス様のものとされた喜びのゆえに、私たちはイエス様を「私の主」と呼び、おつかえするのです。トマスは「わが神、わが主よ」と告白し、ダビデは「主は私の羊飼い」と告白しています。

さらに、パウロは「聖徒そして監督、執事」の順番で書き記しています。監督―執事―聖徒という階級制度に基づいた順序になっていないことにも注目したいと思います。教会は監督・執事によって運営されるピラミッド型の組織体ではなく、全ての聖徒と監督・執事職と呼ばれる人々とがパ−トナ−として仕えあう「聖徒の交わり」であり、聖徒の共同体として地上におかれていることをパウロは示唆しています。自由市民-奴隷階級といった社会的な身分差別が激しかった古代において「パ−トナ−シップ」を基盤とする共同体の形成が志されていたことに私は驚きます。

2 パウロの感謝(4-6

パウロは手紙の冒頭で、3つの感謝を言い表しています。第1は、ピリピの教会のメンバ−たちとの出会いの感謝を記しています。そしてそのような出会いを与えてくださった神への感謝をパウロは決して忘れることはありませんでした。第3は、出会った仲間たちとともに福音宣教という神のみわざに預かってきたことへの感謝です。このように神と人と宣教の働きへの感謝が一つにとけあってパウロの中に喜びを生んでいるのです。

1 出会いを神に感謝する

ピリピの教会はパウロにとっても非常に想い出の多い教会でした。紫布の女商人ルデアを初めとする女性たちにガンギデス川のほとりで出会い、キリストの福音を語ったところ、このルデアがヨーロッパでの初穂、最初のクリスチャンとなりました(使徒1612-15)。なぜパウロが川のほとりで説教したかといいますと、ロングネッカ−という学者によれば「ユダヤの律法では一家の長である男性が10人住んでいればどこであっても律法を守るための会堂を建てることが定まっている」といっています。そうでない場合には川のほとりなどの清い場所が公の祈りの場とされていました。ですから異邦人が住むピリピの町には10家族のユダヤ人もいなかったことになります。そんな中で神様は、神を敬う紫布の商人ルデヤ(使徒1614)を選ばれ救いに導かれました。さらにパウロとシラスが投獄された夜には、看守長が回心して家族そろってバプテスマを受けました(使徒16:33)。この2家族が中心となり、ピリピの教会を建てあげ、パウロのヨ−ロッパ宣教のために惜しげもなく献金を贈り続け、宣教の働きを支えたと推測できます。思い巡らせば思い巡らせるほど、パウロの心には「感謝」がわきあがってきたことと思われます。

皆さんも、今までの人生で多くの人たちとの出会いを経験してこられたと思います。父や母、おじいちゃんおばあちゃんとの出会い、幼稚園の先生、小学校の先生、友達たちとの出会い・・初めて教会に足を運んだ時に迎えてくれた牧師の笑顔・・いろんな人たちとの懐かしい記憶を思い起すことができると思います。その一つ一つは偶然の出会いではなく神様が導き、備えてくださったことを覚えましょう。

配偶者への不満を訴える方は少なくありません。聖書によれば人類最初の出会いと人間関係はアダムとエバの出会いです。不思議な特徴を見ることができます。アダムがエバを自分で妻に選んで結婚したのではありません。アダムが「眠っている間」に神様がアダムのわき腹からあばら骨を取り、エバを創造し、アダムのところへ連れて来ました。神様がアダムのためにエバを選び二人を出会わせたのでした。一番大切な人は神が備えてくださった人なのです。アダムが自分で選んだ相手ではありませんでした。結婚の奥義がここに隠されています。そこで、キリスト教結婚式においては、新郎新婦と証人である会衆に向って、牧師は必ず「神が出会わせたものを人は決して離してはならない」と結婚の宣言をいたします。

自分の親に不満を訴える子供も少なくありません。子供は自分で親を選んで生まれてきたわけではありません。神様が親となる人を最初から備えておられたのです。両親にとっても子供を選り分けして生んだわけではありません。どのような子供が生まれ、どのように育ってゆくのか最初からわかって生んだわけではありません。すべてが神様からの贈り物です。そこには子から母へ「生んでくれてありがとう」両親から子へ「生まれてきてくれてありがとう」というお互いへの感謝と神様への感謝があるのです。

とはいっても、思い出すだけでも嫌な気分になる人の顔が急に浮かんでくるつらい場合があるかもしれません。良い人たちとの出会いもあれば、あの人と出合ったのがウンのつきだったと後悔するような出会いもあり、忘れようとしても忘れられないほどの心の痛みになっている出会いもあるからです。出会ったすべての人に対して感謝が言えるわけではありません。しかしあえて言わせてください。癒えない心の傷に対してもやはり神様を見上げましょう。神様を見上げるならば、「最善をなしてくださる」神の恵みに触れることができるからです。
過去と人間を見ている限りは癒えない傷も、神の恵みに触れることによって癒えるのです。時が癒してくれるだけではありません。悔い改めの祈りの中で流す涙とともに十字架の下ですべてが赦され、洗い流され、癒されてゆく霊的な恵みの経験も知っていただきたいのです。

2 仲間と呼び合う出会い

自分を支えてくれている多くの仲間との出会いのゆえに神様に感謝しましょう。特に福音宣教という働きにともに仕えあう仲間は「何よりも大切な」仲間です。クリスチャン人口が少ない日本では、特に大切にしてゆかなければならないと思います。クリスチャン同士が争いあうことほど悲しいことはありません。私たち南京都地区にある7つの教会の牧師は毎月順番でそれぞれの教会に集い、朝の祈り会と食事をともにして交わりを深めています。日本での宣教がなかなか厳しいゆえになおさらお互いが協力し合うことの意味は大きいのです。このピリピの手紙の中でパウロは二人の有力な婦人が争って分裂おこしていることを聞いてたいへん心を痛め、和解するように勧めています。

教会の中には牧師と信徒、あるいは信徒同士の間で時には溝ができてしまうことがあります。神が出会わせてくださったという感謝が薄れると、人間的な欠点ばかりに目がゆき、争いや溝が生じやすい土壌が生まれてしまいます。さらに、「福音宣教の同労者」という「パートナ−シップ」の考えが薄れると上下関係・権力関係が教会の中にも生じかねません。パートナ−シップとはお互いが対等の関係にあって、地位や立場や肩書きからコミュニケ−ションをとるのではなく、一人の人間として相互に敬愛の心をもってコミュンケ−ションを取り合う関係を意味します。このことは次週、「同労者」というテーマで学びたいと願っています。

「あなたがたを思うたびごとに神に感謝している」
なんと幸いなことばでしょう。そこには神が与えてくださった出会いを尊び、相手に対して感謝し、神様に感謝するクリスチャンならではの喜びがあります。出会いを通して神様に感謝し、神様を通して相手との出会いに感謝する。この二重の感謝で結ばれた関係が教会における交わりの本質なのです。

主が私たちをこのように感謝と喜びで満たしてくださいますように。


「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(1テサロニケ5:16-18)