「最近の若者は 目上の者を尊敬せず 親に反抗 法律は無視 妄想にふけって 道徳心のかけらもない このままだとどうなる?」 こんなことばを私たちはよく耳にします。ところでこの言葉はいったい誰の言葉だと思いますか?
実は、古代ギリシャ哲学者プラトン(BC427-347)のことばです。どうも昔からどこの国の人々も若者を理解するのはたいへん難しかったようですね。
獄中のパウロは殉教の覚悟を決めており、たとえそうなっても「私と一緒に喜んでほしい」と語っています。「あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。」(2:18)
また一方では釈放されてピリピ教会を再び訪問することを願っており、そうなれば喜びですとも語っています。どちらに転んでも「喜び」とうけとめました。「いつも喜んでいなさい」ということばはパウロの口癖ではなかったかと私は思います。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」 (1テサロニケ5:16-18)
これでは、サタンもパウロを困らせ気落ちさせることはできません。良いことが起こることだけを考えているから、悪いことが起きた時に無防備状態となり、対応ができないためにパニックになってしまうのです。反対に悪いことばかりを想像して不安を膨らませてしまうこともよくありません。実際は良いこともたくさんあるのにそれが見えなくなってしまうこともおこるからです。良いことにも悪いことも「すべてを働かせて益としてくださる」神様を信じて神様を喜ぶことが大切ではないでしょうか。
さて、パウロはもし釈放されることになればピリピ教会を訪問したいと願っており、詳しい様子をあらかじめ知っておきたいのでテモテを遣わすけれどもよろしく頼みます((23-24)と願っています。
獄中生活を送るパウロのそばで身の回りの世話をしてくれているテモテをわざわざ派遣するというのですからよほど信任が厚かったのでしょう。テモテとはいったいどのような人物だったのでしょうか。
我が子テモテ
パウロはテモテの「りっぱな働きぶり」を認めています(22)。そのりっぱな働きとは、「子が父に仕える」従順さに特徴がありました。テモテはパウロと肩を並べ同格の立場で働いていたわけではありませんでした。テモテはまるで父親に仕えるようにパウロを助け、パウロもテモテを「信仰による真実な我が子」(1テモテ1:2)と呼ぶほど信頼し愛していました。殉教するまえには「急いで私の元に来てほしい」(2テモテ4:9)とさえ願うほどの深い情愛で結ばれていました。なぜここまでパウロはテモテを愛していたのでしょうか。年が若く信仰経験もまだ浅かったテモテですが、「彼は自分のことを求めず」ただいつも「キリストにのみこころを注いでいる」(21)ことをパウロは理解していたからです。
「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを
求めてはいません。」(2:21)
自分の利益や満足を中心に考えて行動したりせず、無欲無私の心をもって神様に仕えていることを良く理解していました。自分の思い通りにならなかったら反発したり、自分の意見が通らなかったら協力もしないでかえって足をひっぱるというような利己主義者たちがこの世には多くいるなかで、テモテは「星のように輝いている」一人でした。
2 純粋で気弱なテモテ
テモテは祖母ロイスと母ユニケによって育てられた(2テモテ1:5)3代目クリスチャンでした。テモテはとても「純粋な人」(2テモテ1:5)でしたが、純粋であるがゆえに繊細な神経の持ち主であったようです。気がもともと小さいところもありました(2テモテ1:7)。そのためしばしば牧会上の悩みやストレスから胃炎を起していたこともわかっています。彼は若くしてエペソの教会に監督として派遣されましたから悩むことも多くあったと思われます。しかしパウロはテモテを、若いからといって軽んじられてはなりませんと励ましています。
「年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。」
(1テモテ4:12)
後にエペソの教会の監督としてテモテは派遣されましたが、2度にわたってパウロがテモテに手紙を書き送るほどいろいろ心配させる存在であったようです。そんな若き日のテモテでしたが、パウロと同様、キリストのゆえに殉教者として生涯をまっとうしてゆきます。伝説によればテモテはエペソの教会の監督として殉教したと伝えられています。
性格が気弱でも、線が細くても、神経質で臆病でも、この世のことをあまり知らない世間知らずでも、キリストにあるならば人は必ず成長します。そして託された働きを全うしてゆきます。テモテの場合は、3つの霊的な支えがあったと考えられます。
3 3つの霊的なサポ−ト
1 祖母と母の祈りがあったからです。
「祈りの子は滅びない」ということばがあります。祈りが重ねられる中で人は育ちます。祈りの最大の敵は祈らないことです。自分で否定的な結論を早々と出して祈ることをあきらめてしまうことです。祈らなければ祈りは聞かれないのです。
「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、
また祈りなさい。」(エペソ6:18)
2 みことばと御霊が注がれるからです。
テモテは気弱で臆病な性格であったようです。パウロはテモテにキリストの御霊の力に信頼するように励ましています。御霊が注がれ御霊に信頼するときにいつでも人間的な壁が崩れ、人間的な限界を超えることができるのです。
「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、
力と愛と慎みとの霊です。」(2テモテ1:7)
3 良き理解者がいたからです
パウロはテモテが私利私欲から解かれ、純粋で従順な心をもって神様に仕えていることを誰よりも理解していました。地味な働きであても「立派な働き」と認めていました。いいかえれば、テモテはパウロに認めてもらい理解されていたのでした。テモテの最大の理解者はパウロだったのです。
かつてパウロは第1次伝道旅行に際してバルナバのいとこである青年マルコを連れて行きましたが、旅行の疲れと異国の地の生活に適応できずマルコは途中で挫折して帰国してしまいました。ですから2回目の伝道旅行ではマルコをつれてゆくことをパウロは拒否しました(使15:38)。その時、バルナバがマルコを連れてキプロスへの伝道旅行へ出かけ、マルコにチャンスを与えたのでした。バルナバと言う良き理解者のもとでマルコはやがて有能な働き人となり、マルコの福音書を書き残しました。パウロも晩年にはマルコを認めマルコを連れてきて欲しい「彼は役に立つ」(2テモテ4:11)からとテモテに頼んでいます。
超エリ−ト階級に属していた若い日のパウロには若者の弱さを理解する心はまだ十分に育まれてはいませんでした。忍耐や寛容さや信じる心がまだ未熟で乏しかったのです。マルコの存在はパウロにとって大きな教訓となったのではないでしょうか。人は失敗を重ねながら成長するのです。本当の失敗とは「失敗から何も学ばないこと」です。
パウロとテモテの関係から、「良い指導者ではなく良い理解者がいれば人は育つ」ことを教えられます。
良い指導者であろうとすればおのずと視線は上から下へと注がれます。そのために無意識のうちに人を動かそうとしてしまうのです。子供との関係において考えれば実感できると思います。親なのだからと思えば思うほど無意識に「親の権威が先立ち」ます。「こどもになめられてたまるか」と思ってしまうのです。そしてついつい上からガミガミと怒ったり干渉したりして子供を思い通りにコントロ−ルしようとしてしまうのです。
親は子供の前に一人の「理解者」として座ってあげることが大事なのです。こどもが必要とするのは母や父という世界でただ一人の理解者なのではないでしょうか。
だれでも自分を理解してくれる人を求めています。ひとりでも自分を理解し、承認してくれる人がいれば、人は生きてゆけるのです。どんな試練も困難もきっと乗り越えてゆくことができるものです。必要とされているのは「一人の理解者」なのです。
タレントの島田紳助さんが中学高校時代、京都でやんちゃしてさんざん親を困らせたそうです。 補導されて警察に迎えに来てくれる母親に対して「おかんうるさい、黙れ、死ね!」と親をぼろくそにこきおろしているときでも実は「心の中では手を合わせておかんすまん、かんにんな」と謝っていたそうです。本当は気の弱い子でさみしがりやなのだ、強がってるだけや」と息子を理解して忍耐強く、息子の立ち直りを祈ってくれていた母があってこそ今の紳助がいると深く感謝していました。彼は子供の非行で困っている親に対して、「自分の子供を最後まで信じてあげて下さい。見棄てないで最後まで見守ってあげてください。私と同様、心の中ではきっと「おかん、かんにんな」と手を合わせて謝っているにちがいありませんから」という趣旨のメッセ−ジを語っていました。この番組がテレビで放送された時、たいへんな反響が寄せられたそうです。
2300年前の偉大な哲学者プラトンでさえ「最近の若い人たちは・・!」と嘆きました。理解できないと嘆き、裁く前に、精一杯理解しようと務めることから始めたいと願います。若者世代と大人世代とは文化や価値観の枠組みが違うのですから自分の枠組みだけで判断しようとしてもしょせんは無理なのです。しかし、違うのは枠組みだけであり、ひとりの人間であることには何の違いもありません。枠組みが違っても自分を理解してくれる人を、少なくともわかろうとしてくれてる人を若者は求めています。「わかる、わかる」を連発するようなうわべだけの同調者ではなく、一人の人間としての存在を心から理解しようとしてくれる人を求めています。
パウロという良き理解者がいたからテモテはその人生を輝かすことができました。バルナバという良き理解者がいたからマルコはその才能を開花させ、神様の栄光をあらわす生涯を全うしました。若者たちがキリストにあって成長してゆくことを祈る教会でありたいと願います。
「愛はすべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」
(1コリント13:7)