北京オリンピックがいよいよ始まりました。金メダルは1つしかなく試合には勝者と敗者しかいませんから、悲喜こもごもの人生模様が繰り広げられます。期待通りの活躍をしてメダルを勝ち取り笑顔で喜ぶ者、重圧に負け期待を裏切る結果になり責任を一人で背負い込んでしまったように落ち込む選手もいます。競技中に体調を崩したり怪我をして途中で棄権したり、直前になって試合にさえ出場できなくなった選手もいます。破れた選手たちの中に、もう一つのオリンピックの感動的なドラマが秘められていると私は思います。
さて、パウロはテモテと共にもう一人の人物の名前を挙げています。エパフロデトです。彼はピリピの教会から、パウロの経済的な欠乏を補う為に献金を携えてローマに派遣されてきた「使者」でした。献金を届けるという目的のためばかりでなく、そのままロ−マに留まり獄中のパウロのために身の回りの世話なども引き受けてパウロに仕えるようにと特別に遣わされた「奉仕者」でした。テモテを「真実な我が子」と呼んだパウロは、エパフロデトを「私の兄弟、同労者、戦友、」(2:25)と呼び、深い信頼を表しています。
しかしながら、こともあろうに戦友エパフロデトが「死ぬほどの病気」(27)にかかってしまったのです。神様のあわれみを受けて幸いいのちをとりとめたもののパウロはたいへん心を痛め、エパフロデトがこれ以上無理を重ねていのちさえ落としてしまわないようにピリピに戻ってゆっくり療養してもらおうと考えました。エパフロデトをピリピ教会へ遣わすので彼を「喜び」(2:29)迎え入れてくださいとお願いをしています。
志しなかばで倒れることは本当に残念なこと、たいへん悔しいことだと思います。ましてや病気というような不可抗力の場合にはなおさら無念さが残るのではないでしょうか。エパフロデトは期待された働きを最後まで全うできなかったことで自分を責めたり、自分を情けなく思って意気消沈してしまうことがあったかもしれません。少なくともそんな心中をパウロは十分理解していたにちがいないと思います。
「ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、
彼のような人々には尊敬を払いなさい。」(2:29)
あえてエパフロデトを「喜びにあふれて迎え」、彼のような人に「尊敬をはらいなさい」とパウロが書き送ったのは、心半ばで倒れたり、任務を全うできなかった者を責めるような者がピリピ教会の中に少なからずいることへのこまやかな配慮とも受け取れます。
大きな国際試合で負けたチームや失敗した選手に対して帰国後に、たまごがぶつけられたり、激しい非難のことばが浴びせられたりすることがしばしばあります。失敗を悔いて「申し訳ない」と自殺さえしてしまった選手も過去にはいます。あってはならない最大の悲劇です。オリンピックや国際大会に出場するほどの超一流選手をいったい誰が責めることができるでしょう。
パウロはエパフロデトのような人々を心から「尊敬しなさい」と勧め、悪口雑言を浴びせるような人々や批判的な思いを抱く人々を強くいさめています。こころざしなかばで倒れてしまった人たちへの配慮と励ましがパウロにはあふれています。3つの視点から志なかばで倒れた人々への配慮を学びましょう。
1 結果だけではなく過程をみること
「なぜなら、彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。」
(ピリピ2:30)
病気になったことと危険な命がけの働きとの間に強い関連性があったことをパウロは示唆しています。エパフロデトは病気になってしまうほど命がけで福音宣教のために働いたのです。病気になったという結果に対して評価するのではなく、病気に至るまでの経過・プロセスに対して理解することが求められます。このようにプロセスに理解を示すことを真の配慮といいます。いのちを賭けて福音のために労したエパフロデトはパウロにとって文字通り、かけがえのない「戦友」だったのです。いのちをかけて労した、努力した、奮闘した人々に対して、一体誰が結果だけで判断し評価することができるでしょうか。
2 尊敬を忘れないこと
「ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には
尊敬を払いなさい。」(ピリピ2:29)
パウロはエパフロデトを迎えるピリピ教会の会員に、彼への尊敬の念を忘れないようにと念を押しています。
「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」(ピリピ2:3)
他の人を自分より優れた人と認め、尊敬し、お互いを「敬う」ことによって人間関係は成り立ってゆきます。パワーポジション、パワーコントロールという言葉をご存知でしょうか。地位に伴う権威や権力を傘に来て横柄な態度をとったり、力ずくで相手を支配下に置こうと脅しをかけたり乱暴なことばを浴びせて精神的に追い詰めたり、時には肉体的暴力さえ加えてしまうことを指します。パワ−コントロ−ルの考えは親子関係にも、教師と生徒の関係にも、職場での上司と部下の関係にも、医者と患者との関係にも、ときには牧師と信徒との関係にも存在します。夫婦間ではしばしば「家庭内暴力・ドメスティックバイオレンス」という形で表面化してきます。パワ−コントロ−ルに対して望ましい態度とは、相互尊敬に立ったパ−トナ−シップを大切にし、ヒューマンリレ−ションを心がける態度であるといえます。つまり相手が誰であれ、その人を敬い、対等な立場に立ち、視線の高さを同じにして、対話を重ねながら理解を深め合う人間関係のありかたをさしています。
このようなパ−トナ−シップの精神を忘れて、「上から下への視線」で相手を見ていないか、権力の座にいつしか座ってパワ−コントロ−ルを行使してしまっていないか、謙虚に振り返らなければならないと思います。
病気で倒れてしまったエパフロデトが足でまといなので、あるいは役に立たないから「送り返す」という言葉をパウロは使っていません。むしろテモテ(2:19・23)と同様に、ローマ教会からあなたがたのもとにエパフロデトを「派遣する」(25)とパウロは語っています。送り返すのではなく新たな使命を帯びて遣わされてゆくのだとパウロは強調しています。このことは単なることばの言い換えではありません。派遣ということばには、派遣される人々への心からの尊敬と感謝が込められているからです。このようにたった1つのことばにも真実な思いやりや尊敬の念がおのずとにじみ出てくるものなのです。
「そのすべてのことを、徳を高めるためにしなさい。」(1コリント14:26)
3 神が使わした使者
「またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデト」(ピリピ2:25)
パウロはエパフロデトをピリピ教会からの「使者」と呼んでいます。使者とは「神様から使わされた人」の意味を持ちます。ピリピ教会からパウロのもとへ遣わされた人という人間的な立場を意味しているだけではありません。ピリピ教会がエパフロデトを派遣してくれた愛のわざの中に、神様がエパフロデトをパウロのもとへピリピ教会を通して派遣してくださった恵みを見ることができました。ピリピ教会のパウロへの愛ばかりでなく、神様の愛と配慮がピリピ教会を通してあらわされたと受けとめ感謝しました。エパフロデトが使者として選ばれたのもピリピ教会の役員会で決定されたからではなく、エパフロデトを神様が召され、神様が立てられたという神様のご意志によるものだとパウロは信仰的に理解しました。神様のご意思やご計画をすべての出来事のなかに見て取ることを「摂理」への信仰と言います。偶然そうなった、たまたまその出来事が起きたというのではなく、神様のご意思によって導かれたことと信じることを意味します。
パウロはエパフロデトを「神に召され、神に派遣され、神に用いられた神の器」として、つまり神様からの使者として感謝のこころをもって喜び迎え受け入れました。そしてまったく同様に今度はピリピの教会がエパフトデトを喜びと尊敬の心をもって受け入れるように願ったのでした。
大切なことは「人を見る」だけではなく「人のうしろに神を見る」ことではないでしょうか。
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです」(ピリピ2:23)
すべての選手が金メダルをとるわけではありません。金メダルはただ1つです。失敗する者、挫折する者、棄権する者、競技場にすら立てない者もいます。これが現実の世界です。オリンピックを人生にたとえるならば、人生の金メダルをとる人はわずかといえます。むしろ多くの人が競技に参加しますが、志しなかばで倒れ、失敗や挫折といった苦悩を経験しているといったほうが実際的だと思います。オリンピックという舞台では勝者と敗者に2極化されますが、私は人生という舞台には勝者と呼ばれる人がたとえいたとしても(それさえ怪しいものですが・・)、敗者は存在しないと思っています。失敗はその人が失敗と思うから失敗となるのです。その人が失敗の中から多くを学べばそれはもはや失敗とはいえません。また失敗なしではなにごとも起きないのです。失敗をしたということは、失敗を怖れて何もしなかったというのではなく、その人が果敢にチャレンジをしたということの証明にほかなりません。このような気持ちでものごとに向き合える人は、かならず何度でもやりなおすことができると信じます。
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)
神様は一人一人を召され、かけがえのない仕事を託し、そのために良き一人の「理解者」をそばに備えてくださっています。ですからたくさんの理解者を得ようなどと思う必要はありません。あなたを理解してくれている、あるいは一生懸命理解しようとしてくれている身近な一人の人を感謝し大切にしながら、神様のみこころに従って歩んでいきましょう。