北京オリンピックもいよいよ閉会式を迎えます。私は表彰式を見るのがとても好きです。そこに様ざまな人間模様を見ることができるからです。金メダル以外は価値が無いと銅メダルを投げ捨てた選手がいました。一方では銅メダルを心から大喜びで受け取り、家族や自分を支えてくれた人々とその感動を分かち合って誇りとしている選手もいました。「期待されたメダルの色は違っていても、僕にとっては金色のメダル」ですと優しいことばをかけて労をねぎらった選手のご主人もいます。何を価値とするか、そしてどこに価値の基準を置くかで、気持ちも行動も生活もその後の人生も大きく変わるものです。
今日は「価値あるものをあなたは見つけましたか」という題でメッセ−ジをいたします。
1 ちりあくたに等しい価値
「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」(4-5)
パウロは生まれも育ちも学歴もキャリアもいわば超一流のエリ−トでした。律法に照らしても落ち度のない人間であったと「7つの誇り」を自負しています。最初の4つは生まれながら自分に与えられていた特権であり、後の3つはパウロ自身が努力精進して獲得した地位と権威でした。しかし、誇りとしてきたこれらものはイエスキリストを知ったときに、「ちりあくた」に等しい「無価値なもの」に思えてきたとパウロは語っています。だから、捨ててもなにも惜しくないとまで言っています。捨てても惜しくないどころか、熱心に戒律を守ってきたことやキリスト教会を激しく迫害してきたことに注ぎこんだエネルギ-と情熱と時間を思うと「損をしたと思う」とさえ語っています。他の人からみれば、七つの特権は、その中の一つでも手に入れたいと思うような価値あるものですが、パウロはすべてをひっくるめて「ちりあくた」に過ぎないと言っています。価値観の大転換が起こったのです。
「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思う(完了形) ようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています(現在形)。」(7)
「損と思う」という動詞の時制に完了形と現在形が使われていることは、パウロにとって、昔も今もキリストのすばらしが少しも変わらないことを表しています。さらにイエスキリストを知ることの「絶大な」価値というギリシャ語は「他のものとはくらべものにならないほどずばぬけている」という意味をもつそうです。ダントツ、超すげ−という若者ことばが当てはまるかと思います。このようにキリストはパウロにとって特別な存在として揺るがない位置を占めていたのです。
あなたにとってイエス様はいまもかわらない特別な存在でしょうか。イエス様とともに生きることが、昔も今もあなたにとって特別なお方でありつづけているでしょうか。イエス様が色あせてはいないでしょうか。遠のいてはいませんか。他の何かに目移りしてしまってはいないでしょうか。次のことばはあなたにとって真実でしょうか。
「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。」(ヘブル13:9)
2 損得計算のやり直し
パウロ・リ−ス博士は、価値観の転換を「損得計算のやり直しが起こった」と表現しています。何が価値あることであり、何が無価値なことかがわかってくればおのずと、計算のしかたが変わってきます。無価値なものをたくさん集めても意味がないことに気がつくからです。子供は何でも集めます。そして数や量が多いほうを喜びます。ところが成熟した大人は多くのガラクタを集めるより、1つであっても最高に価値あるものを手に入れ、大事にすることを願います。
本当の価値がわからないとどうしても「欲の方程式」にのっとって損得計算をしてしまいます。欲がでると「割り算」や「引き算」をいやがり、「足し算」と「掛け算」しかやろうとしません。減ることは大嫌い、でも増えることは大好きという生き方をしてしまうのです。みなさん、欲の掛け算には落とし穴があります。物の数や量を「A」とします。価値の質を「B」とします。量と価値をかければこの世の価値基準となります。100円のボールパンが10本あれば1000円の値打ちがあるわけです。ところがパウロは「キリスト以外のすべて」を塵芥と呼びましたからその価値は「ゼロ」になります。100万円かけるゼロはゼロ、一億円かけるゼロはやはりゼロとなります。ところがイエスキリストの価値は「絶大」ですからその価値は「アルファ α」(無限大)といえます。そうすると1×α=α、 100×α=α となります。 数字が多かろうと少なかろうとすべてがアルファ(無限大)に変わります。重要な要素は数ではなく価値にあります。数よりも価値に重きを置くという人生の計算方法があることを心に覚えましょう。
イエス様はこのようなたとえ話しを語り「価値」の重要性を強調しました。
「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。」(マタイ13:45-46)
真珠は当時、最も価値が高い宝石であり、ロ−マの貴婦人たちが愛した宝石です。そこで、最高品質の真珠を見つけたら、家中の金銀宝石類をすべて売り払ってでも、その1粒の価値ある真珠を買って手に入れることが賢い商人が行なう計算方法だとイエス様は語っています。
さらに、イエス様は富に価値を置く金持ちの若者を次のように導きました。
「イエスは彼に目をとめ、いつくしんで言われた、「あなたに足りないことが一つある。帰って、持って いるものをみな売り払って、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そし て、わたしに従ってきなさい」。(マルコ10:21)
残念ながら彼はイエス様の価値の絶大さに気づかず、地上の富を愛し、悲しげにイエス様のもとを立ち去ってゆきました。
長崎24聖人の一人として処刑されたクリスチャンの中にルドリコ・茨木という14歳の少年がいました。彼を取調べた奉行が彼の利発さ聡明さに感銘し、「もしキリストを捨てるならば、わしの子供として迎えよう」と語りかけました。すると少年は毅然とした態度ではっきりと「お奉行さまのおことばには感謝します。しかし、この世のものと天のものとを引き換えるわけにはまいりません」と断り、十字架の道を選びました。そのことばに奉行の目から涙がこぼれたという記録が残されているそうです。
3 キリストを知る
パウロはもっと「キリストを知りたい」との強い願い、希望、目標をもっていました。「キリストの中に」「主にあって」という表現を164回もパウロは書簡の中で好んで用いています。キリストと結び合いキリストと交わりながら生きることが彼の人生そのものであったことがわかります。たとえロ−マの獄中であっても変わることはありませんでした。
教会において大切なことは、キリストについて知ることではなく、キリストを知ることです。同様に、教会にいるクリスチャンたちと交わることが中心ではなく、教会におられるキリストと交わることが中心であり最も大切なことです。「イエス様をもっと知りたい」との願いが、あなたの中の大きな価値観となっているでしょうか。
最近、中国人のクリスチャンの方とお友達になりました。高校を卒業して就職するために都会に来たその日に駅でカバンを盗まれ無一文になってしまったそうです。そんな失意の中で彼女は教会へ導かれキリストと出会いました。やがて日本の大学に入学する機会が与えられたものの、授業料を稼ぐ為に一日に2つのアルバイトをかけ持ちしなければならないほどの苦しい学生生活が始まりました。なんと卒業式の前日にやっと最終学期の授業料を支払うことができたそうです。授業料が払えなければ卒業は取り消されますから、必死でイエスさまに祈ったそうです。彼女はイエス様だけを頼りに、毎日毎日祈りながら暮らしましたが、「イエス様の助けは決して絶えることはありませんでした」と明るく話してくださいました。困難の中にあってイエス様をさらに深く知ることができる人は本当に幸いな人であると思います。
主イエスキリストは昨日も今日もとこしえまでともに歩んでくださる私の神、そしてあなたの神です。このすばらしい方と人生をともに歩みだしませんか。ともに歩み続けませんか。イエスキリストにまさる宝は世界中どこを探しても見つけることはできません。イエス様の名が崇められますように。
「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」
(ピリピ2:9)