先日、テレビでオリンピックの柔道で2大会連続金メダルをとった内柴正人選手(30)を取材した番組がありました。彼には複雑な家庭環境で育ち「生みの母、育ての母、今の母」と3人の母がいます。生みの母親に会えないさみしさを覚えていましたが、小学校時代に柔道を始め、柔道で強くなり有名になって母に自分の姿を見てもらおうと稽古に一生懸命励んだそうです。強くなって日本一、世界一になりたいということが、多くの選手の動機ですが、彼は「おかあちゃんに自分の姿を見てもらいたい」ことが動機だったと言っています。ですからオリンピック初出場が決まった時、アテネオリンピックの試合会場に生みの母を招き、その母の前で見事に優勝しました。最初の金メダルは「母への感謝のメダル」だったと言っています。そしてスランプに落ちいったときに支えてくれた現在の母と妻のためには、北京オリンピックで勝ち取った金メダルを感謝の心をもってささげたそうです。
人がどんな夢を持ち、どんな目標を持つか、そしてその目標はどんな動機によって支えられているか、さらにその目標を達成する方法は神様の御心にかなっているかいなか、これらは私たちの人生を豊かなものにも喜びの薄い無価値なものにも変えてゆく大きな力をもっていると私は思います。
今日は、パウロの教えから学びましょう。
1 自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。
「すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求してい るのです。」(12)
パウロは自分がすでに得てしまった、完全なものとなった、つかみとってしまったなどと決して考えていません。むしろ「追求している」(11)「走り続けている」(14)と語っています。
神様を求める生き方に決して「終わり」はありません。困ったことに時々、信仰の歩みを自分から「卒業」してしまう人がいます。「最近、教会に足が遠のいていますがどうかされましたか」とお聞きすると、「いや、だいたいのことがわかりましたのでもう卒業時期です」「神様のおかげで病気もすっかり良くなったし、そろそろ卒業させていただきます」といわれる人がいます。塾や幼稚園や学校には卒業式がありますが教会には卒業式はありません。生涯、神様を慕い求め、神様とともに歩み続けてゆくことが信仰の道だからです。信仰はいつでも「現在進行形」で語られるところに価値があるといえます。なによりもパウロのように「私はまだ完成されていません」という自覚こそが謙遜さのきわみであり、反対に「もう十分です」という思いは傲慢さの表れといえます。パウロはイエス様が私をとらえてくださったので私も追いかけていると語っています。いつも神様の恵みが先行し、イエス様に導かれて、イエス様のくびきにつながれて、イエス様とともに私たちは歩み続けるのです。
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」(マタイ11:29)
2 すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み
パウロは「後ろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」といいます。この場合の「後ろのもの」とは、「この世に属する古いもの」の総称です。パウロはかつて人間的な表現すれば出身民族・家柄・学歴・キャリアなど7つの誇り(ピリピ3:3-6)をもっていましたが、それらはキリストの前ではもはやちりあくたに等しい無価値なものとなったといいました。
「忘れる」とはギリシャ語では「数え上げない」という意味だそうです。「後ろのもの」を数えあげれば「番町更屋敷のお菊さん」じゃないですが、「あの時はこうだった、ああだった、もしああすればこうしていれば・・」と悪しき思いや後悔や恨みつらみにますます激しく囚われてゆくことになります。ダウンロ−ドスパイラルという専門用語があります。否定的思考と落ち込み気分が重なって行動面が沈滞する悪循環が強化されてしまう危険性が高くなることを指しますが、十分注意しなければなりません。他人と過去は変えられませんから、2度と追体験できない過去に囚われ後ろ向きになってゆくのではなく、常に前のものに向って進むというモ−ドに意識的にスイッチを切り替えないと幸せにはなれません。
では、「前のもの」とはなんでしょう。前のものとは、クリスチャンになった人々に神様が与えてくださった天の数々の恵みの総称といえます。
「私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」(エペソ1:3)
すべてのもろもろの霊的祝福とは、神様の永遠の選び、神様の永遠の愛、神様の完全な赦し、神様の永遠の救い、永遠のいのち、永遠の神の御国の完成、復活の希望、そして神様のご計画などなど・・。地上の富をもってしては何一つ手に入れることができない神の恵みの数々です。
過去のものは「数えるな」(忘れろ)、しかし天の恵みを「数えて見よ、ひとつづつ」と聖書は教えています。天の恵みを多く数え上げれば数え上げるほど、後ろのものは小さくなり忘れてゆけるのです。
「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩篇103:2)
良くしてくださったこととは、あのことこのことなど一つ一つの良き出来事を指す前に、天の倉にぎっしり詰まっているこれらのもろもろの霊的な祝福を指していること覚えましょう。
「神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです」(14)
パウロは、前のものを求めるという生き方を、「目標をめざして一心に走る」と言い換えています。
一生懸命に走っているけれど、目標がもしなかったとしたら一体どうなるでしょうか。目標もゴ−ルもなくただ走るというような選手はいません。疲れきってしまいます。それは黒潮に乗って太平洋をぐるぐると泳ぎ続ける大型「マグロ」にたとえることができると思います。マグロは時速60キロで太平洋を回遊しますが、その大きな体を維持するために必要な酸素を大きく開けた口からジェット水流のようにして海水を取り込み、えらから噴出させて体内に大量に取り入れます。ですから泳ぎをやめれば必要な酸素を得ることができませんからたちまち死んでしまうのです。かわいそうなことにとにかく死ぬまで泳ぎ続けなければなりません。目的地も無く、ゴ−ルもなく、ただぐるぐると太平洋という巨大な水槽の中を泳いでいることになります。目標の無い生き方、ゴ−ルが設定されていない生き方はむなしい生き方といえます。パウロのこのように語っています。
「ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。
空を打つような拳闘もしてはいません。」(1コリ9:26)
つまり決勝点を明白にすることが不可欠です。ここがゴ−ルであるということをはっきり指し示すことが求められています。教会のような共同体であれば、全員にゴ−ルが示され共有され意識化されていることが不可欠といえます。あなたの決勝点を明確にしなさい、あなたの目標とするゴ−ルはどこでしょうか。
どんなに忙しくしていても生き生きしている人がいます。自分の「目標」や「夢」や「目的」がはっきりしている人々です。具体的なかたちで「目標が設定され」その目標に向って時間、情熱、エネルギ−、お金が注入されているからです。このような人にとって、ストレスは人生のスパイスに変わっています。疲労感よりは達成感がはるかに大きいからです。
さて、「ひたむきに」とはどのような態度でしょうか。熱心に一生懸命というよりは、「疑わずに信じる」という信仰態度ではないかと私は思います。信仰とは「信じる」ことです。何を信じるのでしょうか。神様は信じる者に栄光をあらわしてくださることを信じることです。私は次の3つの御言葉を心の力にしています。
「まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」
(マルコ11:23)
自分が願った通りになると信じるならそうなる。信じて祈るならばそうなるというイエス様のお約束が語られています。
「イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」(ヨハネ11:40) 神の栄光を見ることができる。これが祈りに対する神様の答えです。神様が今も生きておられるその生きた神体験をさせていただけるのです。
「あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(ヘブル10:36) 忍耐を保ち続けることは祝福を得る鍵です。では、いつまで忍耐するのでしょうか。それは祈りが聞かれるまでです。忍耐とはクリスチャンにとって我慢することではありません。忍耐ということばは「待ち望む」ことと置き換えることができます。
3 キリスト・イエスにおいても上に召してくださる神の栄冠を得るため
目標をはっきりとさせることは最も重要なことです。しかしパウロはその目標が「神の栄冠をえるため」であると究極の目的を記しています。目標達成のためならば手段を選ばないという人がいるかもしれませんが、決してよろこばしいことではありません。目的や目標には「品格」「倫理性」「崇高性」が求められます。その目的や目標がどのような気高い倫理性にささえられているかが最も重要になります。神様の栄光になること、社会に貢献できること、家族や知人に役立つことをしたいと誰もが願います。気高いこと、永遠に残ることをしたいと誰もが願います。「神様の栄誉」を受けること、神様に喜んでいただくこと、神様の栄が私たちの小さな奉仕を通して崇められることが私たちの永遠の喜びなのですから。
「国と力と栄とはかぎりなく何時のものなればなり」(主の祈り)