「というのは、私はしばしばあなたがたに言って来たし、今も涙をもって言うのですが、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます」(ピリピ3:18-21)
パウロはクリスチャンは「天国に国籍を持っている」と教えています。霊園墓地に行きますと墓碑に「我らの国籍は天にあり」と刻まれているクリスチャンのお墓をときおり見かけることがあり、「はっ」とさせられます。死んだらいったいどこへ行くんだろう・・極楽・地獄・あの世・浄土・・ことばは多くあってもなぜかぼんやりと曖昧です。あるお坊さんは「地獄も極楽も、西でも東でも北でもなく、みなみなみ(みな身・南)にある」と教えていました。結局は「こころのあり方」を「極楽・地獄」とたとえているのでしょうか。
ところが聖書は「国籍」という実際的な法律用語を用いて死後の世界観を明確に伝えています。辞書を引きますと「国籍とは,人が特定の国の構成員であるための資格を指す」と記されています。ちなみに日本では国籍法(昭和25年)において、日本国籍の取得及び喪失の原因を定めており、国際的にも多重国籍は認められていません。生粋のユダヤ人でありながらロ−マ帝国の市民権を持つ国際派のパウロには「国籍」のもつ重みがわかっていたのではないかと思います。
1 キリストの十字架に敵対する者
さてパウロは「天国に国籍を持つ」者と「その行く先が滅びであり地獄である」者とがいると教えています。これはたいへん厳しい指摘だと思います。地獄とは、永遠の刑罰を受ける世界であり、究極において悪魔とその手下どもが投げ込まれる為に用意された裁きの場所です。永遠に消滅することも死も無い世界と呼ばれていますから何一つ救いが無い、まさに「滅び」の世界です。
「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」(黙20:10)
どんな悪事を働いた悪人がそんなおそろしい場所に行くことになるのでしょう。それは「キリストの十字架に敵対する人々」であるとパウロは語っています。
「多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。彼らの最後は滅びです」
(ピリピ3:18-19)
では、十字架に敵対するとはいったいどんな行為なのでしょうか。それは、十字架の教え、つまりキリストの福音に敵対することを指しています。具体的には、「キリストの十字架による罪の赦しだけではなく、モ−セの掟をちゃんと守らなければ救われない。手始めに割礼だけは最低限受けなければならない」と間違った教えを説いて、ピリピの教会の信徒を混乱させる「律法主義者」たちを指します。また律法主義者とは反対に「キリストの教えにいちいち従ってはおられない。そんなことをしていたらこの世じゃ食っていけない。信仰を放棄はしないが、まあほどほどに」といい加減な態度で信仰生活を送っている「生活至上主義者」たちも指していると考えられます。このような人々は「自分の腹」(生活や欲望)を満たすことだけにもっぱら関心を示し、神様のことはどんどん後回しにする傾向があります。なによりもキリストの十字架の赦しを信じる福音信仰を間違った方法へゆがめてしまう危険性がありました。つまり、福音を否定したり拒否したり異なる福音を語る者はすべて「キリストの十字架に敵する」者でありその末路は滅びにいたるとパウロは強調しているのです。
もしキリストの十字架の身代わりの死と赦しが無ければ、自分の努力や宗教的熱心さや道徳心を高めるという手段を用いて神様の前に立ち、永遠の審判を受けるしかありません。聖なる神様の前に、そのままの姿で立ち「私は完璧な人間です。心のどこにもやましさも秘密も罪のかけらさえありません」と堂々と言い開きができる人は一体どれぐらい存在するでしょうか。聖書は「すべての人が罪を犯したので神の栄光を受けられなくなった」(ロ−マ3:23)と教えています。十字架の救いを拒めば、そこに待っているのは「良い行為と良い道徳を積み重ねる人間の努力による救い」しか残されていません。ところがその道は、神の審判には耐えられないのです。ですからパウロは地獄について語っているのではなく、福音・キリストの十字架の救いの絶対性を強調しているのです。神の一方的な恵みのしるしである十字架以外に救いはない、赦しはない、私たちが義とされる道はないのです。
2 十字架の救いを信じて生きる人たち
パウロは十字架の救いを受け入れる者たちは、「国籍が天にある」といいました。ピリピの町はロ−マの植民地都市であり「ロ−マ市民権」を持つ人々が多く住んでいました。国籍や市民権を持つということは、権利を享受し、保護を受けることを意味します。天国に国籍を持つ者はキリストの永遠の王国に属するすべての祝福を享受し、神ご自身を喜ぶことができるのです。やがて過ぎ去ってゆく空しい一時的な快楽ではなく、永遠の喜びを経験することができるのです。
先日のテレビ番組で、一流企業の人事担当者が採用したいと思う人材の資質は、高い学歴や能力ではなく、むしろ「楽しんで仕事をやる心」を持った人だそうです。なるほどなと私は思いました。待遇が良く高収入が約束されているたいへん満足な状況であっても不平や不満をこぼす人もいれば、どんなきつい状況のなかでも楽しみながら仕事をこなしている人もいます。天国に国籍を持つ者は、天の喜びを心の内に持たせていただいていますから、置かれた状況にかかわらず楽しむことができるのです。状況に支配されない喜びがあるといえます。いつも喜んでいる不思議な力が宿っているともいえます。考えたら不平や不満ばかりもらしているクリスチャンを私はあまり身近でみかけません。こんなたいへんな中にあってもユ−モアが出てくることに驚かされることがあります。
天に国籍を持つクリスチャンは3つのことを「待ち望む」ことができるから、きっと喜びも失われないのだと思います。
第1に、「キリストの再臨」を待ち望み喜んでいるからです。第2に「救いが完成する」ことを待ち望んでいるからです。第3に「神のみ力」を待ち望み喜ぶことができるからです。
「キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」(ピリピ3:21)
万物を従わせうる力(エネルゲイア)はエネルギ−の語源となったことばで絶大な力を意味します。キリストの再臨とキリストの御国の到来とクリスチャンの救いの完成は一つに結び合わされています。王と国と国民は常に一体となっているからです。さらに、「主の栄光のからだと同じ姿に変えられる」とありますが、栄光に満ちた復活の新しい体をあたえられるという外側の変化だけでなく、内側の性質においてもキリストに似るものとされ、愛においてすべてが完成することが約束されています。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
(2コリント3:18)
「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。(1テサロニケ4:15-17)
パウロはやがてロ−マで断首刑にされ、そのからだはオスティア街道の砂の上に投げ出されることとなりますが、パウロは自分の地上の最後ではなく、「キリストの再臨」と「救いの完成」をはるかに望み見ていました。ユダヤ人でもなくロ−マ市民権を有する自由人でもなく、天国に国籍をもつ天国人としてのゆるぎない喜びがパウロの心を満たしていました。そして誰もこの喜びをパウロから奪うことはできなかったのです。
あなたの救いはキリストが来られるときに完成します。ですから、永遠のキリストの国の完成を待ち望みましょう。困難が多くても最後にはすべてがキリストの恵みの主権のもとに置かれ、私たちもすべての悩み、苦しみから解放され、栄化され、救いが完成します。
さらに、神の全能の力は私たちの日常の生活の中においても働いていることを決して忘れないで心に留めたいと思います。一流企業の人事のプロは「楽しみながら仕事をする人」「楽しみを見つけることができる人」を求めています。今の時代、仕事が決して楽しいものではなく非常に厳しいものであることを熟知しているからです。楽しむ力は大きな優れた資質です。人生を前向きに意義深いものにする力だと思います。
私たちも今、新しい会堂を祈り求め始めていますが、坪単価5−60万円もする小倉近辺で土地を探すことは易しいことではありません。小さな教会の私たちには経済的な負担を考えるとたいへん困難なことに思われます。現実の数字を見れば見るほどため息が思わず出て気落ちしてしまうこともしばしばです。しかし地上のことばかりを考え、人間的な計算ばかりに明け暮れ、天を見上げることや全能の神の力に信頼することや神様への感謝と献身の心を忘れているとすれば、「天に国籍を持つ者」としてふさわしい態度とはいえません。天に国籍を持つ者は天に望みをしっかりつなぎ、天に豊に宝を積むことを心がけるものでありたいと祈らされます。みなさんはいかがでしょうか。絶大な神の力、全能の力を信仰によって待ち望む者とされましょう。
「ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」(ピリピ1:27)
「全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あ なたがたが知ることができますように。」(エペソ1:19-21)