「そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。ユウオデヤ(よい香り)に勧め、スントケ(幸運)に勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。いつも主にあって喜びなさい。
もう一度言います。喜びなさい。(ピリピ4:1-4)
パウロはいつも喜んでいなさいと教えています。少し話はずれますが、現代医学の世界で今、笑いや喜びやユ−モアの効果が見直されています。一九九二年、日本心身医学会は、がん患者が大阪の吉本新喜劇を見て大笑いしたところ免疫力が活性化したと発表し笑いの効果が日本で知られるようになりました。米国では人々の健康づくりに大いに貢献し、治療効果が高いと「笑い療法」は定着しつつあります。大笑いは内臓のジョギングとも言われ、適度な運動に匹敵する効果があり、大笑いでリラックスすると自律神経の働きが安定し、適度な運動をした時と同様、血中酸素濃度も増加するためだそうです。またストレスを大幅に減少させリラックスさせることができるそうです。さらに脳内モルヒネと、エンドルフィンという強力な鎮痛作用を持つ神経伝達物質が増加し、痛みを忘れてしまう効果があることが研究報告されています。強い痛みの中にある人ほど笑いが必要となります。こう考えると、喜びという感情は神様からの大きな贈り物であるとも言えます。病気のときこそ笑いや喜びが薬となり力となるのです。
1 しっかりと立つ
「いつも喜んでいなさい」とパウロが語っている背景を見てみましょう。まずパウロはピリピの教会のメンバ−に対して「しっかりと立ちなさい」(4:1)と書き送っています。というのは、教会の中で、ユウオデア(よい香り)とスントケ(幸運・愛想がよい)という2人の有力な女性指導者が不仲となり争い合い、両者の対立が大きな問題に発展しそうだったからです。そこでパウロは二人には「一致しなさい」と呼びかけ、名前が不明ですが信頼している協力者に「二人を助けてやってほしい」と仲裁を求めています。
ポ−ル・リ−ス博士は著書の中で「教会というところでは小さなことが不幸にもいつの間にか大きな問題に発展してしまうことがよくある。ちょっとしたごたごたが、雷鳴のとどろく大嵐になったりもする。その故に、聖霊は不吉な一陣の風の前触れであった段階で、その問題をくい止める働きをするのである」と長年の牧会経験から語っています。2000年前のピリピの教会も、現代のキリスト教国と呼ばれるアメリカの成熟しているはずの教会でも、そして日本の教会でも同じ問題が起きています。ある教会の牧師は「お昼をカレ−にするかうどんにするか」で婦人会がまっぷたつに分かれ深い溝ができてしまったと悩んでおられました。たしかにささいなことで人はつまづいてゆくものです。
パウロは「しっかり立ちなさい」と命じていますが、しっかり立つ前提として土台が安定していなければなりません。不安定な土台の上で安定を保つことは曲芸師のすることですが、私たちクリスチャンは2つの霊的な土台の上にしっかり立つ必要があると思います。第一は「神のことばにしっかり立つ」ことです。第2は「キリストの愛にしっかり立つ」ことです。この確かな土台の上に立つから「しっかり」することができるのです。4章までで私たちは神の言葉に立つことの重要性を学びました。ですからここではキリストの愛にしっかり立つことを学びましょう。
聖書は繰り返しキリストの愛、あるいは聖霊の愛にとどまることを求めています。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。」(ヨハネ15:19)
「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ3:17−19)
ところが私たちは実際の出来事の中でどうあることがキリストの愛に立つことなのかがわからないと悩むことが多いのではないでしょうか。私たちクリスチャンの弱さと悩みは「言ってることとやってることが違う」「知ってることとやってることとが違う」点にあるのではと自らを振り返って思います。パウロはキリストの愛を知っているだけだなく、キリストの愛に自らが捕らえられ生きていました。 愛を実践していました。キリストの愛が自然に身についていました。そのような人は何気ない言葉の中にもキリストの愛がにじみ出てくるものです。なにげない言葉の中にこそ、その人の内なる愛がにじんでくるものです。パウロはユウオディア・スントケ問題という人間関係のこじれに対して、どんなふうに愛に立って解決へ導こうとしたのでしょう。
1 決して「悪口を言わない」ことです。
パウロは、ピリピ教会で起きている問題の深刻さと重大さはしっかり認識していますが、だからといってユウオディアやスントケに対する個人非難を決してしていません。この点を留意しましょう。なんとか和解と一致に向けて取り組もうという目標があるときに、非難や個人攻撃をすることは無益であるばかりでなくむしろ破壊を引き起こしかねません。一致するためには共通点や互いが認めあえる点を探し出し共有することがとても大事になります。問題の二人に対してパウロは「彼らは福音の宣教で私に協力し試練を一緒に乗り越え合った」(3)人々であり、「私の喜び」(1)であり「私の冠」(1)でもあると記しています。「いのちの書に名が記されている」(3)永遠の友ではありませんかとも記しています。この手紙の中には非難めいたことばはひとかけらも用いられていません。これがパウロの愛に立つ態度でした。悪口を言わないこと、個人攻撃をしないこと、これはまず私たちが心がける最低限度の愛の態度だと思います。
2 「相手を認める」ことです。
問題の二人に対してパウロは「福音の宣教で私に協力し試練を一緒に乗り越え合った」人々であり、「私の喜び」であり「私の冠」でもあると語っています。弱みや欠点や短所ではなく、がんばってくれたこと、長所、強みをしっかり認めそれを言葉にして伝えています。「あの人が私の悩みの種」「私を困らせる目の上のたんこぶ」「あの人さえいなかったらどんなにすっきりするか」などと決して口にしてはなりません。「冠」とはその人の栄光を現す最高のかぶりものを指します。パウロは、問題の二人が実は「私の喜び」であり「私の冠」つまり私の誇るべき人々であると言っています。
悪口を言わないことは最低限の消極的態度ですが、相手を認め、誉め、承認することはより積極的な態度です。これを「寛容」(5)ともいいます。
「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。」(ピリピ4:5)
私たちの日常の生活において、相手が「自分を認めてくれない、わかってもらえない」とぐちったり怒ったりときには落ち込んだりすることが多くあることと思います。真の解決のために忘れてはならないことがあります。「そういう自分自身がはたして相手をちゃんと認めているだろうか、分かろうとしているだろうか」という気づきです。なぜなら人間関係に一方通行というものはなく、必ず人間関係はすべてが「相互作用」によるからです。自分が伝えたものが相手から帰ってくるのです。ですから、もし相手の存在を自分が認めていなければ、相手も自分の存在を認めようとはしないと言えるでしょう。相手が変わることを期待するよりは自分が相手を認めるところから出発するならば、関係性が変化するチャンスを得る確立ははるかに高くなることでしょう。
3 二人だけにしないことです
パウロはあえて名前を伏せて「真の協力者よ」(3)と呼びかけています。ある特定の人物を指しているのかもしれませんが、私は別の推測をしています。あくまで推測にすぎませんが、ピリピの教会の中に、この手紙を読んで「パウロ先生はきっと私に呼びかけているんだ」と御霊に導かれて感じた信徒たちが複数いたかも知れないなと思うからです。というのは、面倒な問題に巻き込まれたくない、「勝手にユウオディアとスントケの二人で解決したらいいじゃないか、私には関係がない」と傍観者や部外者を装っている人たちがいたかもしれません。私たちはしばしばごたごたの素となったユウオディアとスントケの二人を「問題」にしがちですが、実は見落としてはならないのは周囲にいる傍観者たちの存在です。傍観者は第2の加害者とも言われています。傍観者によって問題の根が深くなってしまうことがしばしばあります。ですから、傍観者が傍観者としてではなく愛をもって自ら行動し始める時に問題は解決に向かうことが多くあります。
愛の反対語は憎しみではなく、無関心であるとマザ−・テレサは言いました。無関心とは傍観者的態度にほかなりません。自分とは関係がないと他人事を装う態度こそ、愛とは真逆の態度なのです。
問題が生じない教会などは一つもありません。問題が起きないのは良い教会ではなく死んだ教会です。そして病的な教会とは傍観者や無関心者が多い教会のことを指すと私は思います。教会の中におきる困難や試練を私の問題としっかり受けとめ、解決に向けて祈り協力し始めるときに、膠着状態に陥っていた多くの問題は始めて解決に向かって動き出すのではないでしょうか。名前を伏せて真の協力者とパウロが呼びかけた背景には、聖霊に示され導かれ、傍観者的立場から離れ、愛において行動し始める信徒が起されることを願うパウロの祈りがあったのではないでしょうか「真の協力者よ」、それは他ならぬあなたのことではないでしょうか
3 主にあって喜べ
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(4:4)
最後に、パウロはいつも主にあって喜べと強調しています。いつもというわけですから、調子の良いときや順風満帆のときばかりでなく、辛いときや悲しいときや試練の時、あるいは難問続出の厳しいときも含まれることは明らかです。現実的にパウロはロ−マの獄中でいのちの危険に直面し、ピリピの教会は内部分裂の危機に直面していますから、好ましい状況に置かれているわけではありません。しかしその中でパウロは「繰り返すが喜びなさい」と命じてます。ピリピの手紙では11回も喜びということばが用いられています。新約聖書全体では50回も用いられていますから、喜びは新約聖書からの大きなメッセ−ジとも言えます。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(1テサロニケ5:16−18)
いつでも喜びなさいとは状況に左右されないで喜びなさいという意味です。状況に支配されないでいつでも喜びなさいという意味です。それができるのは「主にある」喜びだからです。主にあるよろこびとは主イエスから与えられる喜びのことであり、喜びの源泉がイエス様にあることを指しています。喜びの素が富の豊かさや持ち物の誇りや刹那的な快楽や娯楽といった状況や環境によるものではなく、永遠の神であるイエス様にあるのです。だからその喜びはどんな状況に中にあっても決して奪われることがないのです。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」(ヨハネ15:11)
ユウオディア・スントケ問題を解決するにあたって、パウロは「キリストの愛」に立つことを説き、ピリピ教会を導きました。キリストストの愛に立つから、そこにはキリストの喜びが満ちるのです。「しっかりしなさい」という励ましは、キリストの愛に根ざして行動しなさいということにほかなりません。これ以外に人間的にしっかり・がんばることは必要ではありません。なぜならキリストの愛に立つならば、どんな困難にぶつかってもそこにはキリストの喜びが満ちるからです。困難や試練に直面したとき、キリストの愛に立つ解決を祈り求めるならば、そこにはきっと喜びが満ちることでしょう。さらにこの喜びが困難や試練に向かう新しい霊的な力となることでしょう。
あるクリスチャン婦人は様々な困難の中にありますが、彼女の心の中には喜びが絶えません。その秘訣をある時にお聞きしました。するとこんなことを語ってくださいました。中学時代の理科の先生が授業中にこんな話しをしてくださったそうです。「太陽から発せられる光の波は宇宙空間を貫いてどこまでも直進するが、その直進を遮る障害物にぶつかるとそこで始めて発光し様々な色を現すことができる。つまり人間の目に物が見えるようになる。それが証拠になんの障害もない宇宙空間では真っ暗闇のまま。この地上でもっともすばらしい光といえども実は障害物にぶつかってはじめて光として輝き出し彩りを放つのだ」と。この話を聞いた当時はよく分からなかったそうですが、人生経験を重ねるに連れて、よく分かるようになったというのです。光という創造主なる神様の最高傑作でさえ、行く手を遮る障害物に出会って始めて発光することができるようにプログラムされている。同じように困難や試練があってこそ人間のいのちの光も輝くのだと言う人生の真理が良く理解できたというのです。試練や困難はじゃまな存在でなく、むしろその時こそ、その人自身が光輝くときであり、その人の人間性が豊かに現れるときであり、必要な存在であることを。だから人は試練を喜ぶことができるのだと話してくださいました。
私はその話しを感動して聞きました。そして私は改めて思いました。パウロはロ−マの獄中で、ピリピの教会員は分裂問題のただ中で、困難と試練の壁に直面しながらも、その中で喜びという輝きを放っているのだなと。だからこそ、パウロは「喜びなさい」と繰り返し励ますことができたのだと。
パウロは試練に直面するピリピ教会に「しっかりしなさい」と励ましています。しかし、がんばってしっかりするのではなく、キリストのことばとキリストの愛に立つならばおのずとしっかりできるのです。しかも、その困難や試練そのものが状況に左右されないキリストの喜びをもたらし、新たな力となるのです。
私たちの人生はすべてが神の贈り物で満ちていると私は神様を崇めます。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、
あなたがたの喜びが満たされるためです」(ヨハネ15:11)