ピリピ人の手紙 1


私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあな たがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおり  であって、神が喜んで受けてくださる供え物です。また、私の神は、キリ スト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべ て満たしてくださいます。」(ピリピ4:18-19)












先週の月曜日の祝日に私たちは「教会25周年記念バザ−」を開きました。地域の方々にバザ−を通して教会に足を運んでいただき、教会に親しみ、信徒のクリスチャンたちとも言葉を交わしながら、教会を身近な存在として覚えていただければと願いバザ−を開きました。6万円ほどの収益は教会堂建設基金としてささげさせていただきました。教会がバザ−を開くことには賛否両論がありますが、地域社会への宣教と証しの一つと位置づけ、収益の使途を明瞭にし、来会される方々との交流を中心としたものであれば主のみこころにかなうことと判断して行いました。天気にも恵まれ、来会者も多く喜びをもってお迎えすることができて感謝でした。

1 献金は神にささげられる良き供え物

さて、パウロはピリピ教会に宛てた手紙を結ぶにあたって、ピリピ教会から献金の支援を幾度も受けたことを感謝しています。パウロは、献金を「香ばしいかおりであって神が喜んでくださる供え物」(18)と呼んでいます。 香ばしいかおりという表現の背景には、エルサレムの神殿で祭司たちによって動物が祭壇の上で丸焼きにされて神様にささげられる犠牲の供え物の様子がイメ−ジされています。神殿で礼拝する者たちは感謝と罪の赦しを願ってそのような供え物を神様にささげました。

パウロと彼を支える宣教団の活動と生活を支える目的でささげられた献金でしたが、霊的には神様にささげられたものであり、神様がよろこばれる供え物であるとパウロは本質を語っています。献金は決して教会にささげるものでも、牧師にささげるものでもありません。実際には年間予算案に基づいて教会の宣教の諸経費や維持費として用いたり、牧師への謝礼として用いますが、それは神様にささげられた献金の内訳にすぎません。何より献金は神様にささげられた香ばしいかおりであり、神様への感謝の供え物であるという根幹、本質を確認したいと思います。

それゆえパウロは「私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。」(4:17)と神様に祝福を願い求めています。乏しい中から献金をささげたピリピ教会のメンバ−の上に収支を償っても余りあるほどの神様の霊的な祝福が注がれますようにと祈っています。贈り手に「ありがとうございます」と感謝のことばを述べるのが普通の感覚といえばそうですが、パウロは献金は神様への供え物だから神様からの祝福がありますようにと一貫した態度をとっています。

以前、熱心な老信徒が入院され病院にお見舞いに行った時、しばらく礼拝に出席できないからと、献金を託されました。「ありがとうございます」と私が感謝のことばを述べると「献金をささげて牧師から感謝される筋合いじゃない。この献金は神様にささげるものだから、感謝は私が神様にするものです」と言われてしまったことがあります。ほんとうにその通りだと私も思いました。

では、どのようにして受け取ればいいのでしょうか。「はい。お預かりして、日曜日の礼拝であなたに代わって神様におささげします。あなたの上に、収支を償って余りある神様の霊的な祝福がありますように」と祈ればたいへん聖書的な対応だといえます。

献金することは財布の中がマイナスになることです。ところが神様はささげる者に「プラスマイナスゼロ以上のゆたかな霊的な祝福が注がれ」ますからマイナスのまま捨て置かれることはありません。この世の計算と天国の計算の大きな違いがここにあります。

「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。」(マラキ3:8−10)

モ−セの教えである1/10の奉納をささげる者には「天の窓が開かれ、神様があふれるばかりの祝福が注がれる」と預言者マラキは神のみこころを民に語りました。真実か否か試してみよとさえマラキは問いかけています。この預言者のメッセ−ジとパウロの教えは一つなのです。

イエス様はあるとき神殿に置かれた献金箱の前に座って弟子たちを教えました。これ見よがしにわざわざ大きな音がするように銅貨を袋に詰めてささげる者もいました。ところが、その日の生活費のすべてと思われるレプタ2枚をささげたやもめがいました。イエス様は彼女のささげものに目を留め、「彼女はほかの誰よりも多くささげたのです」と、彼女の信仰を認め祝されました。その後のやもめの生活が日々守られたと想像するに難くありません。

聖書は「いのちの書」の存在と「数々の書物」の存在を教えています。「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。」(黙示20:12)

いのちの書には、キリストの十字架のあがないを信じて救われた人々の名前が刻まれています。一方、数々の書物には、救われたクリスチャンたちの祈りと奉仕の数々が記録されています。神様は小さなひとりの兄弟にささげられた愛のわざさえ決してお忘れになりません(マタイ25:35−40)。

すべてを知っておられるばかりでなくすべてを記録しておられます。人の目に触れなくても、人から賞讃を受けなくても、天にはその愛の奉仕はことごとく記帳され記録されています。ですから右手のわざを左手に知らせるような売名行為は必要ではありません。神様がすべてを知っておられるのですから。天に蓄えられ天の蔵に積まれた宝の量を神様は知っておられ、「よくやった忠実なしもべよ。あなたは小さなことにも忠実であったから大きなことをまかせよう」とねぎらいのことばをかけてくださるのです。

2 いっさいの必要を満たしてくださる神様

「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(19)

他の訳では「あなたがたのいっさいの必要を」(口語)「my God will supply all your needs.(TEV)ともあり、「神様がいっさいの必要(複数)を満たしてくださる」と訳されています。全ての必要の意味であれ、必要が完全に満たされるという意味であれ、いずれにしろ神様の供給の豊かさを現しています。

ここでは「必要」ということばに着目しましょう。私たちが欲しいものや望む物ではなく、私たちが必要なものを「満たす」と神様は約束されました。欲しいものと必要なものとはかならずしも一致しません。人間はいつも必要以上に多くをもとめてしまうからです。皮下脂肪も内臓脂肪もともに身体を維持し内蔵を保護するために必要なものですが必要以上にため込むとメタボリックシンドロ−ムと呼ばれ、動脈硬化による突然死の最大危険因子とされてしまいます。「ほしいものと必要なもの」、クリスチャンは思慮深くこの区別をしなければなりません。

ある牧師は「神が与えないものは必要がないものだ」と語っています。私たちが安易に欲に走ることを戒めているのです。もっとも必要は自覚がなければ必要と感じないと言う特徴があります。重い病気にかかっていても本人に治そうという自覚がなければ病院に行こうとしません。医者に診てもらい薬をだしてもらおうという必要性を感じなければ、深刻な問題を抱えていてもそのまま放置してしまいやすいのです。「何が必要なのか」「将来を見据えて今、何を必要としているのか」をしっかりと見極め、求め続けるならば、神様は必要を満たしてくださることを信じましょう。

「あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。」(ルカ11:8)

3 神様の栄光の富に従い

いっさいの必要が満たされるためにはそれなりの財源が必要となります。神様の財源は「神の栄光の富」とされています。しかも、神の富から支出をする権限は救い主であるイエスキリストに委ねられています。神の御子イエスキリストの名によって祈り求めるならば、神の富の蔵の扉は開かれるのです。わかりやすく言えば「イエスの名によって祈る」ことを指しているといえます。

「あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」(ヨハネ16:24)

「神様の栄光の富」という財源は「神の富」ですから「無限の富」です。さらに「栄光の富」ですから、神様の名があがめられるという目的が明確にされています。つまり、私たちが必要とし、神の名があがめられることであれば、神はご自身の無限の富にしたがってキリストの名によってすべてを満たしてくださるとの約束が記されているのです。

パウロは「わたしの神」は幾度も私の祈りに神様が応えてくださり、そのように成し遂げてくださり、神様の恵みを体験させてくださったと強調しています。

パウロのこのような経験は本来私たちも経験できることですが、「私たちはしばしばそれはできない」といいがちです。神様にだってそれはできないとさえ言いだしかねません。ときおり「出来ない病」が教会の中に広がることがあります。祈れません、伝道できません、献金ができません、礼拝に出席できません、聖書が読めません・・。できないことばかりを口にするとますますできなくなります。クリスチャンでありながら「全く祈らない、まったく伝道も証もいっさいしない、もったいなくて舌を出すのもいやなので献金も全くしない、聖書も読まない。ここ数年ほこりかぶったまま1度も開いたことがない」という人はまずいないと思います。たとえ1分でも、食事の前には祈っているのです。掃除をしながら洗濯をしながら神様に祈っているのです。本当はもっともっとささげたいと思いつつ出来る範囲で精一杯の献金をしているのです。ですからできない、難しい、無理だと言わないで、できていないことではなくできていることをことばにして感謝しましょう。

さらに現状維持から一歩進み出し、できないと言うかわりに「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と聖霊によって語らせていただきましょう。これは信仰による告白であり、未来の先取りです。

「私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(4:12−13)

できないと言うかわりに「私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」と口にすることで、私たちの心の中の「否定的な壁」が聖霊によって崩されてゆきます。

ベルリンの壁がくずれるといったい誰が想像できたでしょう。しかし1989年に、「決して越えることのできない障害や永遠になくなることのない大きな障害のたとえとして」象徴的に語られていたベルリンの壁が一気に崩れました。私には衝撃的なできごとでした。できないという壁は存在しないないのです。「できない」という壁はいつでも心の中に築かれ、不信仰と否定感情の連鎖でますます強固になってゆきます。「できない」という心の中の壁は「わたしを強くしてくださる方によって」のみ崩されます。「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです」この聖霊による告白を大胆にさせていただきましょう。不信仰と否定感情の鎖をうち砕いていただきましょう。神様の栄光の富の豊かさへの信頼を大きくもたせていただきましょう。私の神は「自身の栄光の富をもって、私の必要をすべて満たしてくださいます」と、信仰と喜びと感謝をもって告白させていただきましょう。