「聖徒たち全員が、そして特に、カイザルの家に属する人々が、よろしくと言っています。どうか、主イエス・キリストの恵みが、
あなたがたの霊とともにありますように。」(ピリピ4:22-23)
みなさんはお手紙を書いて最後をどのようなことばで結びますか。「それでは失礼いたします」「さようなら」「ご健康とますますの繁栄を祈念しつつ」「草々」「かしこ」「乱筆乱文ほどをのお許し下さい」でしょうか。パウロはピリピの教会に宛てて書いた手紙を「信仰の絆」と「祝福の祈り」で結んでいます。
1 信仰による絆
ピリピ教会のメンバ−に対してパウロは、「キリスト・イエスにある聖徒(単数)のひとりひとりによろしく」(21)と呼びかけています。
聖徒とは、神様によってこの世から選び分かたれ、キリストの十字架の血によって罪を赦され、神の家族・神の民とされた全てのクリスチャンを指す言葉です。人間的に特別に優れた完全で倫理的なりっぱなクリスチャンを指すわけではありません。それが証拠にピリピの教会には、仲間割れや分裂騒ぎを引きおこしてしまった婦人たち、病気になり働きを全うできなかったエパフロデトを責める人々がいてパウロの心を痛めさせていたことなどを私たちはすでに学んできました。
パ−フェクトなクリスチャンはどこにもいません。私たちはこの地上では未完成なのです。けれどもその不完全な土の器の中にキリストという宝を与えられているのです。
「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(2コリ4:7)
ですからクリスチャンはお互いに、土の器としての弱さやもろさや不完全さの部分に目を留め非難や批判の対象とするのではなく、その土の器の中におられるキリストに目を留め理解と和解をこころがけることが大切です。
さらに、パウロは「ロ−マで共にいる兄弟たちから、特にカイザルの家に属する人々からあなたがたによろしく」(22)と書き記しています。
獄中にいるパウロでしたが、テキコ・オネシモ・マルコ・ユスト・エパフロテス・医者ルカ・デマス(コロサイ4)、クレケンス・ユプロ・プデス・リノス・クラウデア(2テモテ3)たちの名前も手紙には記されていますから、決して孤立していたわけではありません。彼らはロ−マ教会の指導的役割を担っていたと推測できます。さらに、カイザルに属する人々とは狭い意味では皇帝の家系に属する人々を指しますが、広い意味では宮廷やロ−マ政府に仕える人々を指します。彼らも信仰に導かれ、救いにあずかりロ−マ教会という一つの共同体を形成していたことがわかります。
ユダヤ人と異邦人という民族的な壁を越え、さらには奴隷と貴族といった社会的階級や身分、貧富の差を超えて、兄弟姉妹として交わりを保ち神の家族としての絆で結ばれていました。一つの神の家族としてともに生きるという「共同体意識」が保たれていました。ちなみにパウロは「キリストイエスにある聖徒」と単数形であえて表現しています。キリストイエスにあって私たちは一つのからだ、一つの家族、一つの神の民、一つの聖徒とされているのです。
「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがた はみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」(ガラテヤ3:28)
私たちのような小さな教会の少人数の礼拝ではときおり淋しさを覚えることがあるかもしれません。100人以上の教会に出席すれば、「こんなにもクリスチャンが集ってるのか」と驚き、賛美の声の大きさや人の動きの活気に圧倒される経験をされると思います。しかし、私たちクリスチャンと教会は単独で存在しているわけでは決してありません。南京都にある諸教会、京都にある諸教会、全日本にある諸教会、アジア全土にある諸教会、全世界にある全教会と私たちは一つの公同の教会を形成し、一つのキリストの生きた身体に所属し、一つの家族として結ばれているのです。イエスキリストにあって一つという絆の確かさ、連帯性の豊かさを味わいたいと思います。
2 祝福を祈る
さて、パウロはこの手紙を「キリストの恵みが霊とともにありますように」(23)という祝福の祈りのことばで結んでいます。ところがパウロは感謝の言葉だけでなく「祝福の祈り」を書くことが出来ました。クリスチャンはイエスキリストにあって「祝福を祈る」ことができる小さな祭司とされています。手紙であっても電話であっても、メ−ルであっても祈りあうときであっても、「神様の祝福を祈る」ことができるのです。クリスチャンは相手のために執り成しの祈りを祈るだけでなく、神様の祝福をその人に祈ってあげることができるのです。お説教をしたり励ましやアドバイスをしてくれる友は多くいるでしょう。しかし共に祈ってくれる友、さらに神様の祝福を祈ってくれる友はきっとクリスチャン以外には存在しないのではないでしょうか。
悩みの話しを聞いてもらったら最後にクリスチャンの共が神様の慰めを祈ってくれた。自分のために祈ってくれるその祈りと愛に感動したという証を多くの人から聞きました。私たちは小さな祭司として立てられていることを自覚しましょう。
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」
(1ペテロ2:9)
3 キリストにある恵みを祈る
さて、クリスチャンンが祈る祝福の中心は「キリストにある恵み」です。恵みとは「受けるに値しない者が一方的に受ける神の恩寵・神の愛」を指すことばです。聖書辞典(いのちのことば社)には、「神が、イエスを救い主として信じる者にあふれるばかりにこの恵みを注がれるのであって、善行の報酬としていただくものではない。神からの一方的な賜物として与えられるのである。恵みを頂く手段は信仰である。しかしじつは信仰そのものも神の賜物である」と書かれています。パウロは恵みについてこのように解き明かしています。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」(ロ−マ3:23−24)
「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です」(エペ2:28)
神様からの贈り物、しかも世界最大の最高の贈り物、それが恵みです。内容的には、神様による無条件の罪の赦し、きよめ、完成にまで至らせてくださる真実と愛、永遠のいのち、そして信仰そのものさえ、神様からの偉大なプレゼントなのです。これにまさる贈り物は存在しません。
ところが多くの人々が神の恵みを差し出されても拒否してしまうのです。神様の最大の悲しみは、人間が罪を犯して神様に背くことではありません。神様がイエスキリストにおいて差し出してくださった神様の最大の恵みを拒んで突き返すことです。そこに見られる人間の傲慢さこそが最大の罪なのです。もし、皆さんが心をこめてプレゼントをつくって愛する人に手渡した時、その人が横目であなたのプレゼントを見て、「ふん、こんなもの」と言ってぽいと投げ捨てたとしたらどんな気持ちになるでしょう。福音を聴きながら何10万人、何千万人という人々が、「ふん」と笑い捨てているのです。これほどの悲劇はありません。くりかえしますが、罪を犯すことが罪なのではなく、神様の愛を拒むことが罪なのです。
教会の伝道、クリスチャンの伝道とは、贈り物として差し出されている「神の恵み」を受け取るように伝え続けることなのです。「要らない」と言い続ける人に、「神の恵み」のすばらしさをそれでも知っていただくためにあきらめないで伝え続けることだと私は思います。もちろんそのためには伝える側がキリストの恵みにいつも満たされていることは言うまでもありません。一度でも口にしたら「こんなおいしい物は食べたことがなかった」と感謝されることは間違いありませんから食べていただくまで「おいしいよ」と笑顔で忍耐しながら呼びかけ伝え続けることだと思います。
4 神の恵みは霊に届く
さらにパウロは「神の恵みがあなたがたの霊とともにありますように」と祈っています。霊とは、人の最も深いところ、人が人であることの根源に存在する、「神との交わりの能力」を指します。アダムが罪を犯して以来、この人間の霊が死んでしまった、あるいは機能不全を起こしてしまっていると聖書は教えています。神様との生きた霊的な交わりを失ってしまったのです。ですから、聖霊がふたたびいのちを吹き込んでくださるまでは霊は死んだままなのです。宗教的なまねごとはできるかもしれませんが、神との生きた交わりを経験することはできません。なによりもまず神様の恵みによって信仰によって霊がそのいのちを回復することが重要なのです。
「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいたのです」(エペ2:1)
「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。」 (エペソ2:4−5)
数学者のパスカルは「人間には神のかたちをした空洞部分がある。神のもとにたちかえるまでは何をもってしてもそのむなしさは埋まらない」と言いました。霊が死んでいるのですから根本において喜びがないのは当然です。最も深いところで、人が人として生きてゆく上で不可欠な霊にいのちがなく死んでいるのですから、喜びがなく平安がなく空しいのは当然といえます。
クリスチャンとは「死んでしまっていた霊が御霊によって死からいのちに回復した人々です」これを御霊による新生といいます。神の恵みによって死からいのちへよみがえらされ、神様との交わりが回復した人々なのです。そしてそこから新しい神の家族の一員としての喜びがあるのです。
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」(ピリピ4:4)
アポロ16号で月面に着陸した宇宙飛行士のチャ−リ・デュ−クは40歳でナサを退職した後、ビジネスを初め大成功を収めました。しかしお金が儲かれば儲かるほど彼の心はますます空虚になりました。物質的な豊かさの中に真の意味はなく、人の賞讃のことばも過ぎゆきます。彼はついに1978年にキリストを救い主として心に受け入れました。彼は「私は月をこの足で歩いてきた人間として、月を人間が歩いたことよりも、イエスが地上を歩いたことの方が人類にとってはるかに意味があることだということが分かった」と証ししています。彼の霊が眠りから覚め、死からいのちへと移され、本当の生きる喜びがみちあふれるようになったのでした。
キリストにあって「ひとりのいのちが眠りから覚める、死からいのちへ移される、死からいのちに生まれ変わる」これほどの喜びがあるでしょうか。これほどの祝福があるでしょうか。
私たちはそのように「神の恵み」を祈る者とされているのです。今日、今ここであなたのまわりにいる大切な人々の顔を思い浮かべつつ、十字架の救いを祈り、神様の祝福を祈りましょう。
「どうか、主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように」(ピリピ4:23)