「私が、キリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、そのあかしをしてくださるのは神です。私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになりあなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神のみさかえと誉れが現されますように。
(ピ
リピ
19-11

ピリピ人の手紙 1








今日は東京から3名の私の友人が礼拝に出席してくださっています。月に1度、カウンセリングの研究会で集う仲間ですが、教会の礼拝に出席してみたいと願われ今朝、集って下さいました。とてもうれしい気持ちで一杯です。「朋あり。遠方より来る。また楽しからずや。」といった孔子の気持ちがよくわかります。

さて、ピリピ人の手紙はロ−マで囚人となって獄中生活を送っている宣教師パウロから、彼の宣教の働きを長年にわたってサポ−トしてくれている東ヨ−ロッパ地域の大都市ピリピにある教会のメンバ−に宛てて書かれた手紙であり、執筆年代はAD60−61年ごろと推測されています。

みなさんはもし神様が2つだけあなたの願いを聞いてあげるといわれたら何を願いますか? パウロはピリピの教会の信徒たちのために、心を込めて二つのことを祈り願っています。

要約すれば、パウロは第1に「あなたがたの愛が豊かになりますように」、第2に「終わりの日まで与ええられた救いをまっとうして神のみさかえが現されますように」と祈り願っていました。

 何かを成し遂げて神様の栄光を現すこともたしかにすばらしいことですが、一人のクリスチャンが生涯、信仰の歩みを全うし、救いをまっとうするならば、神様の栄光となるであろうと教えるパウロの指摘も見落としてはならないと私は思います。順境の時も逆境の時もまさかと思う緊急事態の時も全生涯を通してその人が変わることなく信仰をまっとうしてゆくならば、それこそが神様の喜びとなっていることを私たちは忘れてはならないと思います。どんなパフォ−マンスよりも誠実で着実な歩みこそが、神様が喜ばれることだと私は信じています。

さて今朝は2つの祈りのうち1番目の祈り、「真の知識と識別力によって愛が豊かになり、すぐれたものを見分けることができるように」に焦点をあわせて学びたいと思います。

1 愛は形容詞ではなく動詞です

「愛が豊かになる」というギリシャ語は「愛があふれ流れ出る」という意味を持っています。パウロが願っていることは、愛がそこにあるだけではなくあふれ流れることです。それは生きたアクションを伴う行動的な愛を指しているといえます。ある牧師が、「聖書の記す愛は、名詞や形容詞の愛ではなく動詞として表現される愛なのです」といわれたことばが印象深く私の心に残っています。

聖書には「放蕩息子のたとえ話」としてよく知られている物語があります。親の財産を持ち出し都会でさんざん放蕩三昧の生活をしたあげく一文無しになり、故郷に帰ってきた息子を、帰りを待ちわびていた父親が見つけるやいなやすぐに走りだして彼を抱きしめ家の中に迎え入れるという感動的なたとえ話です。イエス様はこの物語を群衆に語りながら、愚かな罪人を赦し、悔い改めて帰って来ることを待ち続けてくださる父なる神様の愛を明らかにしようとされたのです。この物語を題材にしてある画家は、急いで駆け出したためサンダルを片方しかはいていない老いた父親の姿を描きました。片方だけのサンダル! 父親の気持ちが痛いほど伝わってきますね。画家はその絵に「愛は走る」と名づけたそうです。愛は実践されるものなのです。生活の中で具体化されるものです。行いの伴わない信仰は死んだ信仰(ヤコブ227)とも呼ばれます。

あふれ流れでるほど豊かな愛に、走り出すような愛に満ちて、ピリピの教会にさらに豊かになるようにとパウロは心をこめて祈っていました。教会は愛において豊になるとき、神様の栄光をかがやかすことができるのです。

2 神の愛

「愛」という言葉にはアガペ−というギリシャ語が用いられています。人間的な愛(エロス)や家族の愛(フィリア)とは異なり、アガペ−とは永遠の神の愛を表す言葉です。アガペ−の愛の最大の特徴は、キリストの十字架の身代わりの死において明らかにされています。十字架の愛とは、「価しない者にさえあふれるばかりに注がれてゆく犠牲の愛」を指します。罪人に対して怒りと罰をくだして裁くのではなく、ひとり子の身代わりの死によって罪の赦しを無条件で与えようとする神の慈愛を指しています。

「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ロ−マ57-8

クリスチャンの中にあふれるアガペ−の愛は、十字架の愛であり、私の罪が赦されるためにキリストが十字架にかかって命まで捨ててくださったという十字架の愛が源泉となっています。誰かを愛そうとする前に、まず自分自身が神様からどれほど深く愛されている存在であるかを知ることが大切です。なぜなら愛された喜びが愛する喜びに変わり、愛された体験が愛する体験を深めるからです。

クリスチャンとは、父なる神様がひとり子を十字架の上で身代わりに死なせ、私たち罪人の罪を赦そうとしてくださった神の愛を知り、感謝し、その愛に答えてゆこうと決心したひとりびとりなのです。

人間的な愛は損得計算が裏で常に働いている打算的な愛ともいえます。自分にとって役に立つか益になるかを勘定しています。プラスマイナスゼロ以下ならば平気で捨ててゆきます。歯磨きチュ−ブのように力を入れてしぼりださないとなかなか出てこないような、出し惜しみをする愛が人間の愛といってもいいかもしれません。愛しても愛されなかったり、自分が期待する結果がそこに伴わなければ、怒りや不満となり憎しみにさえ急変してしまう不完全な愛といえるでしょう。私たちはそのような人間的な愛の限界をどれほど多く経験し、どれほど深く失望し、傷ついてきたことでしょう。

しかし、神の愛は永遠に流れあふれる愛です。なぜなら神様のご本質が愛だからです。聖書は「神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」(1ヨハネ4:16)と教えています。愛そのものの神様とつながっている限り、愛は決して枯れることも、途絶えることもありません。

静岡県の沼津市に柿田川という清流があります。この川の源泉は、50キロ近く離れた富士山の頂上に積もった雪がとけて地下水脈となってこの川の源泉から湧き上がっているそうです。ですから富士山の頂上が雪で白く覆われる限り、柿田川の水も決して枯れることはないのです。

私たちの心が、神に愛されているという喜びから湧き上がる十字架の愛でいつも満たされますように。神に愛されたという喜びで教会が満ちるように心から願います。

3 愛を支える分別力

「あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって豊かになり、すぐれたものを見分けることができるように」(1:9-10)とパウロは祈っています。

パウロは愛には知識と識別力を必要とすると教えています。さらに、価値あるすぐれたものを愛によって見分けることを教えています。

知識、識別力、分別、判断力がともなわない愛はまるごと気分・感情に依存しています。もし愛が感情だけで動くものであるならば、その愛はときには歪んだものとなってしまう危険性が高いといえます。自己中心的な愛やスト−カ的な歪んだ愛は時には犯罪さえ引き起こします。親子関係では溺愛が子供の健全な自立を妨げ問題を起しやすい環境を作ってしまいます。怒りと自責の感情がコントロ−ルできなくて児童虐待に及ぶといった悲劇も起こりかねません。愛は理性的なコントロ−ルをパートナ−として必要とします。

「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、
力と愛と慎みとの霊です。」(
2テモテ17

識別力・分別力とは「ちゃんと見分けることができ、分けることができる力」のことです。ゴミの分別をしないとゴミ袋のなかがぐちゃぐちゃになってしまい、燃やせば有毒物質を放出してしまいます。環境保護は身近なゴミの分別から始まります。では、愛にはどのような分別力が必要でしょうか。

第1に、神と人間とを区別する力が必要です。

人は決して神になれません。三浦綾子さんが語るように私たち人間は神の手によって創造された被造物であり「土の器」にすぎません。神と人との間には超えてはならない聖い境界があります。私たち人間は神のように永遠の存在ではなく限られた存在ですから、自らの罪と死を見つめながら与えられた一日一日を生きてゆくことが求められます。神のようにパ−フェクトでもス−パ−マンでもありませんから、自分の弱さも他者の弱さも理解し赦し尊敬しあわなければなりません。人は人、神は神、超えることのできない境界線を認め、神を恐れ敬う素朴な敬虔さをもつことがそのまま人間の尊厳にも通じてゆくのではないでしょうか。神を忘れた者は人をも忘れてゆきます。神を恐れ敬う心が回復する時、真の平安と幸福が心を満たすことでしょう。

第2に、自分と他人との区別をちゃんとつける力が必要です。

私は私、あなたはあなたとして分別ができているでしょうか。自立した生き方には自他を区別する力が不可欠です。自分の意見と他人の意見を区別すること、自分と同じように他の人も思っているなどと誤解しないこと、自分と違う意見を排除しないで多様性として尊重し受け入れることが求められます。他者との適切な距離が取れず一体化してしまうと、お互いの自立を妨げ自由を奪い取ってしまうことにもなりかねません。支配されたり操作されて自分自身を見失うことがないように、私はこう思う、こう感じると自己表現ができる力を養うことが不可欠となります。

そのほかに、過去のできごとと今のできごとを区別すること、今起きてることと未来のできごとを区別すること、事実と自分の想像とを区別すること、建前ではなく自分のホンネを理解し自分のほんとうの気持ちに素直であること、こうした分別力も人間関係を豊かにする上で欠かすことはできません。

イスラエルの王、ダビデの子ソロモンは分別力の重要性を強調しています。
「正義と公義と公正と、思慮ある訓戒を体得するためであり、わきまえのない者に分別を与え、若い者に知識と思慮を得させるためである。」(箴言
13-4

パウロはピリピ教会がさらに愛において豊かになることを願いました。そして愛が豊かさを十分に発揮するには、知識と分別力を愛のパ−トナ−とすることの重要性を教えています。ピリピ教会ばかりでなく、イエス様のからだであるすべての教会が、愛においてさらに豊かになることをパウロは獄中から祈っているのです。それは父なる神様も望んでおられることです。

「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに
住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いている
あなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さが
どれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えた
キリストの愛を知ることができますように。」
(エペソ317-19