私は、上級臨床心理カウンセラ−・産業カウンセラ−・精神保健福祉士の資格をもっていますので、従業員250名、グル−プ全体1200名の製造企業に設置されている健康相談室室長としてメンタルヘルス対策に取り組ませていただいています。週2回通う会社はキリスト教を基盤にした企業経営を標語にしていますのでクリスチャンの社員も少なくありません。社内でのクリスマス会や聖書の勉強会などもあり、私にとってはたいへん取り組み甲斐のある働きの場となっています。この働きを通してクリスチャンのドクタ−やナ−スや保健師さんたちとのネットワ−クが広がったことも私の大きな喜びとなっています。どこの職場に行っても、確かに数が少ないですがクリスチャンはいるものです。表現を替えれば、その職場にクリスチャンを貴重な存在として神様が遣わしておられるといえます。その場を「宣教の畑」として豊かな実を結ぶようにと神様が期待して派遣しておられるといえます。私は、生活と職場と仕事を三つに分離して使い分けて生きるという考えはクリスチャンにふさわしくないと思っています。日々の生活と信仰は一体であり、切り離して考えることはできません。家庭であれ、職場であれ、学校であれ、どこに置かれても、私は私であり、そこは私に託された固有の宣教の場といえるのではないでしょうか。そして身近な家庭や職場での小さな証しや伝道がそのまま世界宣教へ通じるのだと私は信じています。
パウロはロ−マの獄中からピリピの教会の信徒に手紙を書いています。パウロがロ−マで投獄されたというニュ−スはすでにピリピの教会に届いています。パウロの身やローマ教会の様子を心配するピリピのクリスチャンにパウロは心配しなくてよいと励ましているのです。
1 福音の前進
パウロの身に起こった苦難(18)とは、ローマで逮捕され囚人として獄中生活を送っていることをさしています。ところがパウロはこの苦難によって、かえって近衛兵たちが福音を聞く機会が備えられ、むしろ宣教の働きを前進させる結果になっていると受けとめています。
ロ−マ皇帝を警護する特別なエリ−ト将校たちを近衛兵といい、およそ1万人はいたといわれています。彼らは思想犯として厳重に監禁されているパウロの監視に24時間交代勤務で当たっていましたから、パウロは彼らに福音を語る絶好の機会に恵まれたといえます。街中ではキリストの福音を聞く機会がまずないと思われる彼らが、勤務中に継続的に獄中のパウロから福音を聞く機会が与えられたというわけです。パウロが語るキリストの福音に関心をいだいた兵士らは自ら志願してパウロの監視にあたりさらにパウロの語るキリストの福音に耳を傾けていた可能性も考えられます。
さらにローマの教会の信徒たちの多くは、指導者であるパウロが投獄されてすっかり気落ちしているかと思いきや、かえって大胆に福音を証し宣教に燃えていました。パウロの投獄が信徒たちの結束力と自発的な行動力を強める結果となったのです。こうした事実を踏まえてパウロは後退どころかむしろ「福音が前進した」と言っているのです。
「前進」と訳されたことばは軍隊用語で「切り開く」という意味だそうです。軍隊が行進するとき、道が川で堰き止められていればすぐさま工兵隊が出動し、短期間で川に橋をかけ渡し道を造りますが、前進とはそのような働きを指すことばです。前進という言葉は、どこであれ道のないところに新しい道を作って進み出て行くことを指しているといえます。
パウロを通して近衛兵へ、近衛兵からさらに皇族・貴族グル−プへ福音が伝えられたと推測することもできます。ルカが福音書を書き送った相手である「テオピロ閣下」(ルカ1:1)と呼ばれるような貴族にまで救いが及び、資料によれば皇帝ネロの第2后ポパイアスまでもがクリスチャンになったといわれています。
パウロが福音を前進させたわけではありません。福音自身が道を切り開いて進んでいるのです。宣教は神ご自身のみわざなのです。ですから止まることはありません。
「わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。」
(ルカ13:33)
「神のことばはつながれてはいない」(2テモテ2:9)
イエス様は立ち止まることなく進みゆかれます。神のことばを束縛することは誰にもできません。福音は前進し続けます。だから時には迫害も投獄もその途上では起きるとさえパウロは考えていました。止まっていればそこで何も起きないからです。
世の中ではよく「悲観主義」か「楽天主義」か。「マイナス思考」か「プラス思考」か、と言われています。私はクリスチャンの場合はどちらでもなく、「現実思考+信仰」だと思っています。人生は悲観と楽観、マイナスかプラスかの2つしかないわけではありません。自分がおかれた現実をしっかり見据えた上で、しかし、現実だけから判断をくだすのではなく最後は信仰に立って判断することを大切にできれば望ましいと思っています。最後のキメは「信仰による」ことが、なによりも神様が喜ばれることだと思います。
「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、
信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)
2 個人批判にとらわれることなく さて、ロ−マ教会では、大胆に宣教をすすめる信徒の中に「善意から純粋に」奉仕する者もいれば「ねたみや争い、党派心」から奉仕する者もいました。党派心とは自分のお気に入りの人々だけを集めて1つの集団を作り、仲間意識を強め、他の集団との違いを際立たせ、自分たちの権力を誇示することです。パウロの目覚しい働きを好ましく思わず、すなおに喜べず、ねたみ心さえ抱く心の狭い人がいたようです。パウロが投獄されているあいだに一旗あげよう、パウロに替わってボスになろう、一派を作ろうと考えた人々がいたようです。そのためにはおそらく陰でパウロの悪口を言い、パウロを非難し、同調者を集めるというネガティブキャンペ−ンをしたのではないでしょうか。
しかしパウロは、そのような個人批判を意に介しませんでした。キリストをしっかり見つめている人は人のことばに振り回されることはないのです。すべての人に喜ばれ全ての人に愛されようと思う必要はありません。人ではなくキリストがすべてです。そして目的がすべてなのです。 パウロは「キリストの救い」が宣教されるならば、それが「私の喜び」ですと語っています。自分への評価や利害関係から離れ、パウロは大切にしなければならない目的をしっかり見つめていました。キリストを中心にしていました。それこそキリストの福音にふさわしい生活といえます。
3 御霊の助け
パウロが心の力としていることがあります。パウロにとっての「救い」、この場合は慰めとか励ましとかになると思いますが、それは「祈り」と「御霊の助け」です。ピリピの教会のメンバ−が祈ってくれている、これがパウロの支えでした。パウロは獄中で孤独な戦いをしているわけではありません。ピリピのメンバ−の祈りに励まされ、今、パウロにしかできない「近衛兵」への特別任務に派遣されているのです。パウロにとって獄中といえどもそこは「働きの場」であり「すでに色づいている畑」でした。刈り取るべき多くの実をパウロは見たのです。
「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」(ヨハネ4:35)
さらにパウロはキリストの御霊の助けをいつも得ていました。「助け」ということばの語源は、「楽団をサポ−トする」(エピコレゲオ−)という意味だそうです。宮廷に使える交響楽団のメンバ−に十分な給与を与えて、メンバ−を集め、さらに楽団の指揮をとるという重要な役割を指揮者・コンダクタ−が果たしていました。パウロは、「十分な供給」あるいは「備え」をして「指揮を取る」人物として聖霊なる神を見ていたのです。獄中にあっても、全信徒を励まし福音を前進させてゆく「真の指揮者」がおられることをパウロは固く信じていたのです。
聖書学院の小林和夫先生が著書ピリピ人の手紙の中で「聖霊は私たちクリスチャンのコンダクタ−です。聖霊というおかたがタクトを振ってくださっているのでそこから目を離さないで、聖霊のタクトに私たちがあわせていったら間違いがないのです」と語っておられます。100名近いオ−ケストラを一人の指揮者がタクト1本で見事に美しく指揮をしてゆくように、聖霊が導かれ、聖霊が指揮してくだささり、聖霊が福音にあずかるものたちとともに福音を前進させてくださる!だから心配しなくてよいとパウロは確信をもって手紙を書いているのです。
キリストから目を離さないで、聖霊の指揮を仰いで、私たちも前進させていただきましょう。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:2)
「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。」(マタイ18:19)