ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。そうすれば、私が行ってあなたがたに会うにしても、また離れているにしても、私はあなたがたについて、こう聞くことができるでしょう。あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。それは、彼らにとっては滅びのしるしであり、あなたがたにとっては救いのしるしです。これは神から出たことです。あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです」(ピリピ1:27-28

ピリピ人の手紙 1













若くして父親を病気でなくした方が「父の最後のことばが心に残っています。『お前は短気だから心の優しい人になりなさい』と言ってくれた父のことばをいつも思い出しながら、心を広く持つように努めています。」と語ってくださいました。20数年前、私の母も癌で亡くなりましたが母の私への最期の言葉は「ありがとう」でした。私はこのことばを「母からの遺言」と受けとめて、「いつでも、どんな状態でも、ありがとう」を言える人になろうと思いました。母からもらったことばは今も生きています。たいへんうれしいことです。

ピリピ教会の信徒に宛てて、パウロはロ−マの獄中からピリピ人の手紙を書きました。パウロの死刑がついに執行された為、ピリピ人への手紙はパウロの遺言状となりました。この最後の手紙に中で、パウロは愛してやまないピリピの教会のメンバ−に対して「キリストの福音にふさわしく生活しなさい(27)」と大切なメッセ−ジを残したのでした。

生活ということばは市民生活を意味します。ピリピはローマの植民地都市でしたからそこに住む人々にはローマ市民権が与えられていました。ですからピリピ市民は大きな誇りを持っていました。パウロはそうした事情を念頭において、市民生活ということばを用いているのです。ローマ市民権よりはるかにすばらしい特権、それはキリストの救いに預かり、神の国に国籍を持ち、天の国の民とされるという栄誉と特権です。ピリピ教会にはローマ市民権を持つ特権階級の人々もいれば、一般の住民さらには奴隷の身分の人々もいました。パウロは全ての信徒に「あなた方の国籍は天にある」(320)のだから、キリストの御国の民として「ふさわしい生活を送るように」と勧めているのです。

1    一人一人がキリストの福音にふさわしく

福音とは喜びの知らせという意味です。最近では「癌患者への福音となるか、新薬開発!」などと新聞の見出しでも見かけるようになりました。教会とクリスチャンが告発信する喜びの知らせは「イエスキリストの福音」以外にありません。キリストの福音とは「キリストの十字架の身代わりの死によって、罪人の罪が無条件で完全に赦されましたよ!それは神様の恵みですよ」という喜びの知らせを意味します。この喜びの知らせは世界最大のハッピ−・ニュ−スなのです。キリストの福音に含まれる「神の恵み」と「喜びの知らせ」にふさわしく生きることを学びましょう。

神の恵みの反対語は人間の肉のわざです。人間の肉のわざとは、人間の努力で救いを得ようとするすべての営みを指します。私たちが罪の赦しを受け、永遠のいのちを頂き、天国へ入ることができるのは父なる神様の一方的な哀れみ−豊かな神の恵みによると聖書は教えています。
「罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。」(エペソ2:5)

宗教的な熱心さや戒律厳守の生活、そして聖人君子のようなりっぱな心になることが天国に行く条件ではありません。徹底的にキリストの十字架の赦しによりすがることが天国に入ることができる唯一の条件であると聖書は明言しています。十字架の救い以外に他のいかなる方法も無効であることを認め、聖書が約束する神のことばに徹底的に信頼することが求められるすべてなのです。つまり、キリストの福音にふさわしい生活とは、キリストの十字架の救いに徹底的に信頼しぬくことといえます。

「私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。」(エペソ17

さらに、福音は喜びの知らせです。もし、喜びの知らせをもたらす者が暗い顔で落ち込んでいたり、不機嫌であったり、不安に包まれていては、喜びの知らせにふさわしくありません。たとえるならば、毛はえ薬のセ−ルスマンが「この薬は絶対大丈夫です」と言っても誰も彼から買おうとはしないことと似ています。ですから喜びの知らせにふさわしい生活とは、御霊の喜びに心が満たされていることに他なりません。教理をどんなに熱心に説いても聞き手の心には届きません。心に届くのはその人の中に満ちている本物の喜びであり感動なのです。聖書は喜びの知らせにふさわしい生活態度として、「祈り・感謝・喜び」を教えています。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(1テサロニケ516-17

大きなことの中に大きな喜びを追い求める必要はありません。むしろ日常の生活の中の小さなことの中に小さな喜びのかけらを見出し、一杯集めてみましょう。一瞬の大きな喜びよりも、いつまでも続く喜びとしてあなたの心を満たすことでしょう。福音に生きる生活とは、日常の生活の中で感謝と喜びに生きることなのです。

2       教会が霊とこころにおいて一致して

さて、信仰の世界では基本的に個人一人一人のあり方が求められますが、同時に一つの共同体として聖徒の交わりの中で生きる者とされていることを忘れてはなりません。個人の信仰がどんなにすばらしくても、教会という共同体の中でその人が生きていなければ、それは神様の御心にかなった歩みとはいえません。教会のシンボルである十字架の縦木を神様との関係とし、横木を教会における交わりと考えていただきたいのです。神様との個人的な関係は教会における信徒相互の交わりに優るものではありませんが、両者がばらばらでは十字架として組み合わせることができません。十字架は縦木と横木が組み合わされて十字架なのです。神との関係である礼拝をより大切にするとともに信徒相互の交わりを豊に深めたいものです。

パウロはピリピの教会が、聖霊による一致のもとで福音宣教に奮闘するように願っています。のちに明らかになってきますが、ピリピの教会の2人の有力な女性信者の間に分裂が生じ、パウロはそのことで心を痛めていたという事情があったからでした。教会はキリストのからだです。体を引き裂けば、血が流れ痛みが伴います。そのために動けなくなることさえあります。イエス様の体である教会を引き裂くようなことがあってはなりません。教会の福音宣教が進まなくなればイエス様の大きな悲しみとなるからです。

3   キリストのために苦しみを賜ったのだから

パウロは、クリスチャンはキリストの恵みをいただいたばかりでなく、キリストのための苦難をも賜った(29)のだから、信仰に反対する人々の脅かしや迫害にたじろいではならないと教えています。苦しみも神様からの「贈り物」として受けとめようというのですから聞き方によっては反発をいだいても当然かと思います。「そんなプレゼントは要らない、お返しする」と言いたくなる人もいるでしょう。

だれであっても苦難や試練には遭いたくないものです。できれば楽をしたいと願うのは本能です。回避できるならば回避したいと願う気持ちも自然です。もっとも、人生の経験を重ねると、避けようとすればするほど嫌なことはますます嫌になってくる、解決を先延ばせば先延ばすほど問題はさらにややこしくなることを経験上わかってきます。回避するよりは受けとめることによって実は問題の解決に向って踏み出すことができることもわかっています。わかってはいるけれど気持ちがそうはならないというのが実情であり私たち人間の弱さといえます。

パウロはキリストのために苦しみを「賜った」という動詞の時制に、「アオリスト時制」を用いています。「一回かぎりの決定的事実」を指す時制です。バプテスマを受けたその時から、キリストのために苦難をうけることは避けられないこととされている、決まっていることと位置づけているのです。最初から覚悟しておく、準備しておく、こころぞなえをしておく以外にないのです。つまりこの世の人は回避の道を模索するけれど、クリスチャンには回避の道は最初から閉じられているのです。

信仰上の試練や反対者たちからの迫害が起きても、あらかじめわかっていれば驚き混乱することもすくなくなるととパウロは覚悟を促しています。考えれば非常にシンプルで骨太の対処方法だと思わされます。受けとめるべきことは受けとめることが大事なのです。

さらにパウロは信仰上の困難や試練を「神様からの贈り物」と理解しました。贈り物としての肯定面を強調したのです。「キリストの為の苦しみ」、それはクリスチャンにだけ用意された特別な贈り物だとパウロはいいます。嫌いな人にプレゼントする人はいません。プレゼントは愛している特別な人にだけ贈られるものです。愛の神様が、その人を不幸にするだけの悪意に満ちたプレゼントなど送りつけるはずがありません。豪華な箱にくだらないものが入っている贈り物もありますが、見かけはありがたくなくても中には貴重な贈り物が入っている贈り物もあるのです。「苦しみだけ」と最初は思えても後に大きな喜びとなる「天からのプレゼント」もあるのです。神様からの贈り物にはそのようなすばらしい宝が隠されているのです。

坂本さんという主婦の証を昔、たいへん感動して聞いた覚えがあります。重度の結核で妊娠は避けるようにと医者から言われていましたが、妊娠し、双子が生まれました。病弱な身で双子のお世話さえたいへんなのに弟は脳性小児麻痺で足に障害がありました。坂本さんは無理がたたりとうとう寝たきりの生活となってしまい、満足に子供の世話も食事もつくることができなくなりました。母として何もしてあげられない自分をうらみ憎んだそうです。小学校にあがる時、弟が「どうして僕はお兄ちゃんみたいに同じ学校へ行けないんだ。どうして僕の足だけみんなとちがうんだ。ちゃんとつけかえてくれよ」と泣きながらお母さんの胸を叩いてきたそうです。このままこの子に胸を叩かれて血をはいて死んだほうがましだ!と本気で死を願ったそうです。ところがやがてその弟が教会に行くようになり牧師が家を訪ねてくれるようになり、坂本さんもいつしか聖書を学ぶようになりました。キリストを救い主として心に受け入れ、クリスチャンとなり、心は平安に満たされるようになり、やがて結核も癒されたそうです。弟も学校を卒業して働くようになりわずかのお給料ですが家にいれて貧しい家の家計を支えてくれるようになりました。なによりもいつも母親を励ましてくれる孝行息子だそうです。苦しくて苦しくて「死んだほうがましだ」「この子など生まれてこなければ良かったのに」と叫んでいた自分でしたが、今、「この子が私に一番、幸福をもたらしてくれています」と神様のみわざを感謝されていました。

どんな困難も神様からの贈り物です。信仰上の困難はとくに神様からの特別なプレゼントといえます。それはあなたが愛されている証拠なのです。こんなことが起きるのは私が不信仰だから神様の罰が下ったんだろうかなどと自分を責め立てないで下さい。繰り返しますが、神様からの「贈り物」として受けとめてください。

キリストは十字架をも忍び、苦難の道を歩まれました。キリストの歩まれた十字架の道は、復活に通じる栄光の道でした。私たちもまた「十字架の道を歩む」とき、それは「栄光と喜び」へとつながる道を歩み出すことをさしているといえます。一人一人、導かれた場において、福音にふさわしく生活しましょう。十字架のいばらの道を喜びをもって進まれたイエス様にふさわしく私たちも歩みましょう。

「 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。」
(詩107:28)
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」
(詩119:71)