獄中にいるパウロにはピリピの教会に対して一つの心配事がありました。それはピリピ教会の中に分裂の小さなきざしが見えたからです。パウロ・リ−ス博士は2章において、キリスト教会が分裂することなく健全に建て挙げられてゆく土台として「一致の価値」「謙遜の徳」「自己責任」の3つを取り上げています。今朝は1−2節を中心に、教会における「一致の価値」を考えてみましょう。
1 この世の一致
離婚した妻にも夫の厚生年金が支給される法律ができて以来、いわゆる熟年離婚が急増しているといわれています。離婚理由の第1位の「性格の不一致」があげられています。しかしながら、考えてみれば性格が違うのはごく当たり前のことであり、違っているのが自然です。何もかもが一緒ならばむしろ不自然なことといえます。私とまったく性格の同じ人間が私のそばにいたら、たぶん私は一緒に仕事をしたり生活するのが難しいだろうなと感じます。皆さんはいかがでしょうか。日本人は血液型による性格分類が大好きですが、科学的には何の根拠もありません。脳生理学の分野では人間の情報処理の仕方には3つのパタ−ンがあることが研究されています。美術館や映画や読書が好きなど目から入る情報が優位になる視覚型、コンサ−トやレコ−ド鑑賞やラジオが大好きという耳から入る情報が優位になる聴覚型、味覚・嗅覚・触覚が優位でスキンシップや情緒的な交流を大切にする身体感覚型に分類されるそうです。実は気があうというのはその情報処理のパタ−ンが似ているのでお互いが気が合うと感じるのだそうです。いすれにしろたった3つの基本パタ−ンしかなくても、人々を一つにまとめるというのはなかなか難しいことです。
じゃあどうするか。一般社会では「指示命令系統」を強くし、「従う者には褒美が与えられ、逆らう者には罰がくだる」というシステムを作り上げて、強制的に統制してしまうわけです。トップダウンですべてが決まり、反論の余地などは残さない。反対者は粛清されるという恐怖政治が行なわれることになります。独裁者に共通して見られるこのような政治体制はしばしば革命によって覆されてきたといえます。
2 三位一体の神に根ざした一致
ところが、パウロが教会において求める一致は、そのような人間的な力によって強制的に作り出される見せ掛けの一致ではありません。教会においては1節に記されているように、キリストにあって生まれる励まし・慰め・交わりが中心となります。1節ではキリストの励まし、父なる神の愛の慰め、御霊の交わりといった三位一体的な霊的な一致が挙げられ、霊的な一致に続いて、人間としての愛情と同情が語られていると解釈できます。具体的には2節でさらに「一致、愛の心、同じ志し」について語られています。
教会では礼拝後に「三位一体」の神の祝福を受け、礼拝者たちはそれぞれの家庭・職場・地域へと遣わされてゆきます。
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、
あなたがたすべてとともにありますように」(2コリント13:13)
ですから1週間の新しい歩みが「三位一体の神の祝福」の中に導かれているとの信仰に立ってクリスチャンは生活します。
パウロは「キリストの励ましと父なる神の愛の慰めと御霊の交わり」こそがピリピ教会の霊的な一致の基礎なのだと教えています。この教えはいつの時代であっても、世界中の教会にとっても変わることのない真理だといえます。
特に御霊の交わりとは、御霊とのパ−トナ−シップを保つことを意味しています。今も生きて働かれるキリストの愛の御霊、父が遣わされたもう一人の助け主である聖霊のパ−トナ−として私たちクリスチャンが生きることを指しています。
パウロ・リ−ス博士が著書の中で、アメリカでの一つの実例を記しています。ワシントンのカルバリバプテスト教会の日曜日の朝の礼拝の時の出来事です。新来会者が紹介されました。そこには新しくアメリカ合衆国国務長官として任命され、ニュ-−ヨ−クの教会から転会してきたチャ−ルズ・ヒュ−ズ氏がお母様と一緒に壇上に立っていました。教会内にどよめきが起きました。お母様の隣には一人の中国人のクリスチャンが立っていました。牧師であるアバナ−ン博士は目を輝かす教会員の心を鋭く見抜いて「十字架のもとでは地面は平らです」と新会員の紹介を結びました。キリストの前ではこの世の地位や職責がなんであれすべての人は平等であり、お互いがパ-トナ-であることを教会員に教えたのです。
教会が真の一致を保ち、御霊のパ−トナ−シップの中にともに生きてゆこうとするならば、十字架のもとでは地面は平らですと互いが言い合える愛の関係が必要となります。
3 兄弟姉妹の一致
三位一体の神の祝福の中にあるピリピ教会の信徒にたいして、パウロは具体的に4つのことを勧めています。一致を保ち(同じ思いを持つことによって)、同じ愛の心を持ち(相互の愛を大切にして)、心を合わせ(愛の調和を育成する)、志しを一つにして(共通の大目標に従うことによって)の4つです。
パウロは「同じ愛の心を持ち、心を合わせて」と諭しています。相互の愛を大切にし、育成することはとても大事なことです。育成するとは学びあいながら育ててゆくことを意味します。クリスチャンと教会の中には「キリストの愛」(アガペ−)がすでに与えられています。しかし与えられていることとそれが豊に育まれてゆくこととは異なります。愛は育まれてゆかなければなりません。愛は育まれてゆくとき豊かさを十分に発揮します。
私は、猿やチンパンジ-などはみな生まれながらに木に登ることができる、なぜなら本能だからと考えていました。しかしそれは間違っていることを知りました。親が死んだり、群れから離れてしまった子供のチンパンジ−を保護し、飼育員が人口授乳で育てて、成長したらある段階で野生に戻します。その場合、まず木に登ることから始めなければなりません。ところが、人間に育てられたチンパンジ−は高いところを恐がって木にしがみついてまったく登ることができないそうです。しかたがないので飼育員が木によじ登って手本を見せて、チンパンジ−に「登りかた」を学習させるそうです。
つまり、愛も一致も「学習しなければ」育たないのです。そして育み育てる為には多くの失敗も必要となります。失敗しながらその中で見出した一つの成功を共に喜び分かち合うなかで育まれます。
神学校時代に、牧会学の授業でこんな話しを聞きました。教会にある日、若者がやってきました。頭の毛はモモヒンガリで7色に染め上げ、耳にも鼻にも大きなピアスをつけています。着ている服といえば皮ジャンパ−に金色の鎖があちこちにぶらさがってがちゃがちゃ音を立てています。 しゃべる口調も品がない。しかもどういうわけか3週間ほど続けて礼拝にやってきました。婦人会から牧師に「何とかしてくれ。注意してほしい。気が散って礼拝ができない」とクレ−ムが寄せられました。牧師が若者と話すと「自分のファッションを変える気はない。教会は外側で人を判断するのか」と反論され牧師は困ってしまいました。婦人会に改めて相談すると「せめて鼻のピアスだけははずして欲しい」と最低条件が出されました。ところが青年は「この鼻のピアスは自分の一部であってはずせない。ありのままの自分を受け入れて欲しい」と譲りません。さて、みなさんならどうしますか? この教会はこの時、学んだそうです、「キリストにあって人を愛することがどういうことか」を。 牧師と教会員は若者に「わたしたちはそのままのあなたを愛します」と彼を受け入れたそうです。教会に受け入れられた若者は教会に自分の居場所を見出すことができ、信仰の成長とともに、やがて青年らしいさわやかな服装と髪型に変わったそうです。
共通の大目標を共有し目標達成に向って進むことは大事なことです。
パウロは「志しを一つにして」とピリピの教会に勧告しています。もちろんこの志しは「神から与えられた志し」であり「祈りの中から御言葉に導かれた」ものであることはいうまでもありません。「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」(ピリピ2:13-14)
目標を持っている人と目標を持ってない人を比べれば日々の生活の時間の使い方が異なります。「つぶやいたり疑ったり心配ばかりしている」ことに無駄な時間を注ぎません。よく観察していればわかりますが、忙しいひとほど目標をしっかり持っています。暇なひとほど目標も掲げていません。することが見つからない、したいことが無い、何をしたらいいのかわからないとつぶやき、目先のことに追われています。こうした状況では気力や意欲がわきあがることは残念ながら期待できません。
こうしたい、こうありたい、こうなりたい、希望、夢、ビジョン、目標は、自分の進む方向性をしっかりと主体的に持ち、ビジュアル化することによって前進します。イエス様も「私に何をしてほしいのか」と盲人に問いかけ「あなたの信仰があなたを救った」(マルコ10:51)と彼を導かれました。
目標は明確にしただけではまだ不十分です。絵にかいた餅にすぎないからです。「それを達成する為に具体的にどのような小さな目標を順序だてて設けるか、何があればうまくいくか、どんな強みがあり活用できるか、達成するためにどれくらい多くの方法や選択肢を列挙できるか。」そして「いつからそれを実行するのか」と意思を常に問い続けて、前に進めてゆかなければなりません。
パウロは柔軟な発想とタフな心をもった人物でした。限られた時間を大切にするため、目標をしっかりと立て、困難の中におかれても撤退することはありませんでした。
「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、
ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、
賞を受けられるように走りなさい。」(1コリント9:24)
「ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳 闘もしてはいません。」(1コリント9:26)
パウロは後継者である青年牧師テモテに心をこめて語り聞かせています。「志し」の達成に必要なのは、信仰、寛容、愛、そしてなによりも忍耐であると。真の一致はここから育かれるのです。
「しかしあなたは、わたしの教、歩み、こころざし、信仰、寛容、愛、忍耐、」
(2テモテ3:10)