18 ロ−マ人の手紙 題 「一人の人から始まるいのち」 2003/3/23
アメリカで一人の父親が息子たちに自分の犯罪を誇らしげに語り聞かせ続けたそうです。犯罪を犯すことを得意げに語り聞かせました。そのような犯罪教育を幼い時から受けた子供たちはやがて成人した時に、全員が犯罪者となり刑務所へ送られたそうです。驚いたことにその息子たちの妻や子供たちまで一族のほとんどが犯罪者として処罰されたそうです。一人の父親から間違った道徳意識や価値観が世代を超えて受け継がれてしまい多くの家族が罪を犯してしまったのです。これは現実の話です。
1 一人の人から
聖書は「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・それというのも全人類が罪を犯したからです。」(12)と教えています。一人の人とは人類の先祖となったアダムを指しています。アダムの罪とは神様の戒めを破り、神にそむいた「不従順」にありました。アダムの背きと不従順の罪は全人類に死をもたらしました。この場合の死とは、神様との交わりを失った霊的な断絶、医学上の肉体の死、そして肉体の死後に迎える永遠の刑罰としての魂の滅びという三重の意味を持っています。このような深刻な死が一人の人アダムの罪によってもたらされたのです。死を私たちはしばしば問題にします。しかしながら聖書の順序は死の前に「罪」が置かれています。ですから罪の問題に解決が与えられなければ死の問題は解けないのです。罪の問題に答えがなければいのちが見えないのです。
この箇所には罪、違反、死ということばが25回も用いられています。私たちの住む世界には罪と違反と死が満ち満ちています。予防的専制攻撃を禁止している国連憲法を無視して米英軍によってイラク戦争が始まり、またしても多くの市民の血が流されようとしています。いつになれば私たちの住むこの世界は「もはや2度と戦争のことを学ばない」(ミカ4:3)世界となれるのでしょう。残念ながら生まれながらの人間はみなアダムに属するアダムの子として、罪と争いと死の中に巻き込まれて生きるしかないのでしょうか。この箇所には25回の罪と死ということばとともに、「恵み・賜物」ということばもまた11回、用いられています。ここに私たちは闇のなかに耀く光を見出すことができます。
「ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」(17)罪と死が一人の人アダムによってもたらされたように、恵みと賜物もまた一人の人、イエスキリストによってもたらされたのです。この方は十字架にかかり私たちの身代わりとなって死なれ、全人類の罪を償い、赦しをもたらしてくださいました。3日後に死からよみがえられ死に支配されない永遠のいのちを信じる者にもたらしてくださいました。
確かに心を重く押しつぶすような罪の現実がこの世界には存在します。しかしながら神の恵みと賜物もまた豊かに存在しているのです。聖書ははっきりと明言します。「しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました」と(20)。この世は罪と死によって宿命論的に支配されているだけではありません。根底には神の恵みと賜物が揺るぐことなく存在しています。ですから私たちはあきらめたり失望したりする必要はありません。
そこで、増し加わる罪ではなく増し加わる恵みに目をとめたいものです。台風がくれば海面や浅瀬の波は大きくあれ狂います。しかし深い海の底は揺れ動くこともなく静かです。ですから世界の底流には神の恵みと賜物が存在していることを見落としてはなりません。イエスキリストの十字架と復活の福音が、神の恵みの賜物として、この罪と死の世に存在しているのです。福音こそが希望の光です。
一人の父親によって彼の全家族全親族が犯罪者となってしまいました。一人の人アダムの違反によって罪の性質が全人類にもたらされその結果として死が全人類を支配するようになりました。ある聖書学者が「全世界から悪を完全に取り除けば、同時に聖書的に存在できる人間は一人もいなくなる」と言いました。そんな現実の只中に、神の恵みの賜物として「十字架で死なれ死から復活された」ただ一人の人キリストによって永遠のいのちがもたらされてのです。私たちは信仰によってこの一人の方に属して生きるのです。
2 一人からでも
今日、私たちは一人の人、キリストによって恵みといのちがもたらされたことを学びました。たった一人の人から全人類に恵みと賜物がもたらされました。私たちは「一人の人」の存在を心に覚えたいものです。私たちは一人では何もできないと思いがちです。一人ではあまりに無力だと考えがちです。ときにはみんなでなければ何もできないと感じてしまいます。特に私たち日本人は「赤信号、みんなで渡れば恐くない」と言う様な集団意識が強い民族ですから、個人として行動することに躊躇します。
けれども、キリストにあるならば「一人から」始めることを恐れる必要はありません。大切なこと、神の御心と信じることは「一人からでも」始めること、「一人でも」すること、そんなスピリットを学びたいものです。ルタ−の宗教改革も「ひとりから」始まりました。ナイチンゲ−ルやマザ−・テレサは「一人でも」神の御心と信じる愛の奉仕を始めました。
「一人からでも」始める、「一人でも」行う。大切にしたいことです。
先のアフガン戦争の時にアメリカ議会では黒人女性バ−バラ・リ−史がただ一人、武力攻撃反対票を投じました。彼女の行動は失笑され反発されました。しかし今日のイラク空爆に関して悲惨なテロ事件のお膝元であるニュ−ヨ−ク市内でさえ10万人を超える反戦デモが繰り広げられています。一人の人からでも世界が動くことがあるのです。
私たちにはイエスキリストという「一人の方」がおられます。この一人の方を見続けること、この一人の方の御声に耳を傾けること、それが私たちの信仰生活と言えます。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」 (ヘブル12:2)
祈り
一人の人、イエスキリストによって、いのちがもたらされました。私たちも一人の人イエスキリストのように、一人でも、一人からでも行動するものと聖霊によってお導きください。
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