28 ロ−マ人の手紙 題 「御霊の切なる祈りに支えられて」 2003/7/20
聖書箇所 ロマ8:26−27-17
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」(26-27)
日本が誇る世界的な指揮者である小沢征二氏は毎朝、偉大な作曲家たちの楽譜を静かに読む時間を大切にされています。そうすると偉大な楽聖たちが語りかけてくるのだそうです。これは小沢征二氏の祈りの世界といえます。彼はこのようにして音楽家としての「内面の世界」を豊かにしているのです。
8章は御聖霊の豊かなはたらきを教えています。今日の箇所では、聖霊と祈りとの関係が教えられています。「言いようのない深いうめきによってわたしたちのために、取り成して下さっている」(26)。聖霊なる神御自身が「うめく」ように祈るのですから並大抵のことではありません。怪我をしたような場合、軽ければ「ここが痛い、あそこが痛い」と言葉にできますが、重傷であれば、ただ「うめく」しかできません。いったい聖霊はわたしたちのために「何を」それほどまで取り成してくださるのでしょう。
27節をみると、「被造物全体がともにうめきともに産みの苦しみをしている」「御霊の初穂を頂いている私たちも心の中でうめきながら子にしていただくこと、すなわち私たちのからだがあがなわれることを待ち望んでいる」としるされています。万物もクリスチャンも御霊も「うめき」つつ、ひとつのことを待ち望んでいるのです。結論から先にいえば、終わりの日に全被造物と神の子たちと聖霊がともに、「新しい天と地が完成する」ことを「うめき」ながら待ち望んでいるというのです。
内村鑑三は,厳しい冬の後には春が必ず来るように、宇宙の完成の日が来ます。「大完成の日、宇宙の完成、人類の完成、新天地出現の日、その日を、全自然とクリスチャンと聖霊とが確信をもって、うめきつつ待ち望むのである。」[1]と記しています。
第1に、被造物は、新しい神の国の出現をうめきつつ待ち望んでいます。
神がこの自然世界を創造されたとき、神は「良し」とされ、深く満足されました。そして、神の御心に適って管理するように大きな期待を込めて被造物の頭である人間に自然世界を託されました。ところが、アダムが神に背き、堕落して以来、人間は「欲と罪」をもって被造物を支配するようになり、所有権をめぐって争うようになりました。「これは私のもの誰にも渡さない」「欲しいから力ずくでも奪ってやる」、所有権をめぐる争いはあらゆる領域に浸透してしまいました。その結果、自然は破壊され、大地や海は幾度も戦争のために流された多くの血で汚されました。こうして、創造者である神と被造世界を委託された人間と自然世界との関係が分断されてしまいました。だから、この世界は、神の御心を行なう神の子たちの出現を待ち望み、新しい天と地が到来する被造物の完成の日を「うめき」ながら切に待ち望んでいるのです。
「主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。」(2ペテ3:9−11)
万物の完成の日は喜びの日ですが、激しい痛みが伴う審判の日でもあります。この世に属する古きすべてのものが焼き尽くされ滅ぼされます。一人でも多くの人が、神の子としての特権をいただき、滅びの苦悩ではなく、神の国の出現の喜びにあずかることを、全被造物は節に願っていると擬人法的に表現しています。
第2に、神の子たちも、死の体が復活のからだに完成されることを待ち望んでいます。
イエスキリストを信じた人々は、神の子とされ、そのしるしとしてキリストの御霊を心に宿しています。しかし神の子供たちといえど、この地上で生きている限りは、肉のからだに束縛され、死の支配下に相変わらずおかれています。肉のからだをまとっている限り、
誰も、病や老化現象や死から解放されることはありません。私たちはすでに永遠のいのちをいただいていますが、まだ永遠のいのちに生きてはいません。キリストの御再臨と御国の完成を待ち望んでいます。すでに私たちは天国の資産を受け継ぐ相続人の法的資格をもっていますが、まだ受け取っているわけではありません。私たちはこのような「すでにといまだ」との、2重の緊張関係のなかで、信仰生活を営みます。たとえれば、金曜日に手持ちの宝くじが1億円にあったことを知ったけれど、銀行がひらく月曜日にならなければ換金ができない。そこで月曜日を「わくわくと待つ」ようなものといえるでしょう。
私たちの究極のゴールは未来に置かれており、そしてキリストの再臨に焦点が合わされています。これは、クリスチャン生活のおおきな特徴です。
ある子供が雪の上をまっすぐに歩んでいます。おとなが足元を見てまっすぐ歩こうとしましたが左右に曲がってしまい、うまくいきません。子供に秘訣を聞くと「遠くの1本の木を見て歩くんだよ」と答えたそうです。手元の目に見える事柄ばかりに気をとられてばかりいると大切なものが見えなくなります。わたしたちの望みは、再び世においでになるキリストの中にあります。
「私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。」(ロマ8:24-25)
第3に、御霊はうめきつつ祈ってくださいます
クリスチャン生活は、神の国に生きる生活と現実のこの世に生きる生活との「緊張関係」の中におかれています。この緊張関係を信仰と祈りによって1元的に生きるのです。日曜日だけはクリスチャン、あとの6日はこの世の人といった2重生活、2元的生活をすごしてはなりません。神の子である私たちがこの世で神の御心に従って生きようとすれば、たちまちさまざまな摩擦が生じます。弱い私たちはそこでさまざまなうめきを経験します。
そんな私たちを助けるために聖霊は私たちのもとに「助け主」として遣わされたのでした。
聖霊は私たちが「もう祈れなくなったとき」ですら、私たちのうちで取り成し続けてくださるのです。聖霊の助けを受けながら、祈りを通して整えられ、強められるのです。
学生時代、私の友達は、観光バス会社のガイドのアルバイトをやっと見つけ、研修を受けて、いよいよ乗務することになりました。ところが、寺院サイドからバスガイドが率先して参拝して旅行者にお手本を見せるようにと通達が出されたのです。彼女は迷いましたが、信仰と仕事を別のものと分離しませんでした。よく祈ってつらい経験でしたが、仕事を辞めました。会社の上司たちは引き止めたそうですが、彼女は神の子としての一貫した生き方を選びました。自分の誇りとする大切な信仰の純粋性を守ったのです。
クリスチャンにとって祈りは、生命線といえるほど大切なものであり、神の力を頂く恵みの通路です。祈りの中で私たちは人知を超えた神の導きや力をいただくことができます。祈りの中で多くの問題を解決してゆくことができます。未信者は、「祈りに何の意味があるだろう」と言いますが、クリスチャンは「祈らなくて何の意味があるだろう」と思います。なぜなら、祈りの中で神が答えてくださった喜びを幾度も経験しているからです。神が生きておられ、祈りに答えてくださることを知っているからです。
クリスチャン生活の原点は、「祈り」にあります。祈りを回復することで多くの信仰上の問題はきっと解決してゆくと私は思います。
しばしば、この祈りの生活が揺さぶられるときがあります。
私たちが「傲慢」になって、祈らなくても自分の考えや力で行動し解決してしまうときです。「これぐらいのことはわざわざ祈らなくても自分でできる」と考え、その結果、いつしか「感謝」することをも忘れてしまうのです。祈ってしたことと、祈らなくてもできたことの違いは、祈ってしたことには神様への感謝がいつも溢れてくるということです。神様への感謝が薄れるとき、それは私たちがいつしか傲慢に近づいているきざしだと思います。祈りと感謝は双子の姉妹です。
第2に、「不信仰」になって疑問を抱いてしまうときです。自分の願い通リにことが運ばないと、「もう祈っても仕方がない」と投げやりになったり、「神様は何の役にも立たない」と思い不信仰に陥ることがあります。自分の信仰を責めないでサタンによって、そのように思わされてしまったと考えてください。サタンはいつも神様に対する「疑い」を持ち込み、気落ちした者に追い討ちをかけるように、「おまえは愛されていないから祈りも聞いてもらえないのだ」と神様の愛を見えなくさせてきます。サタンの常套手段に欺かれてはいけません。「アバ、父よ」と親しく神様に呼びかけてくださる御霊がわたしたちの中に住んでおられますから、かならず疑いから回復することができるのです。
第3は、大きな試練に直面して疲れが限界に達しているようなときです。小さなことであってもいつまでも続いて心身の疲れを覚えるようなときも同じです。肉体的にも精神的にも疲れはてるとき、気力が薄れ「どう祈ったらいいのかわからなくなる」ときがあります。「何を祈ったらいいのか」自分でも整理がつかなくなるときがあります。クリスチャンがどう祈ったらいいかわからなくなる、そして「祈れなくなる」時は、霊的な「危機状態」と言えます。クリスチャンから祈りが途絶えることは、霊的な呼吸停止状態に陥ることですから、その人にとっても実はたいへん辛く苦しいときでもあるのです。ほっておけば窒息死してしまいかねません。
けれどもまさにそのようなときに、御霊が私たちの中でうめきをあげて祈ってくださるというのです。それほどまで打ち沈んでいる私たちと一体となって、生命線でもある祈りの世界を助けてくださるのです。祈のことばさえ失ってしまうようなときでも、人間の心の奥底をご覧になり、言葉にならない世界のすべてをわかっておられる父なる神様は、私たちのために執り成す御霊のうめきを良く理解することがおできになり、祈りに答えて下さいます。
このように私たちが祈ることさえできない「弱さ」のなかにあるときでも、御霊が父との交わりと祈りを保ち続けてくださるのです。私たちが「弱さ」の中に沈み込んでいるときにも、父なる神様との交わりは決して断ち切られることはない!のです。御霊が心に住んでおられる限り、祈りいう「内的な生活」は大切に守られるのです。それほど、祈りという「内的な生活」を神様は大切なものとされておられるのです。なぜなら、父なる神様は、祈りを通してご自身の子供たちを助けようとつねにご準備されておられるからです。
「すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。」(エペソ6:18)
イエス様はお弟子たちに祈ることを教えてくださいました。御霊は神の子たちのために取り成し続けておられます。御父は子供たちの祈りにこたえようとご準備されています。
ですから、「アバ、父よ」と呼びかけることが赦されている私たちが、日常生活に忙殺され、父の前にひざまずくことを忘れていてはなりません。祈りの部屋のとびらを閉じ祈りましょう。神が扉を開いてくださるときまで祈りましょう。御霊はそのような祈りを助けてくださることでしょう。 神の豊かな賜物のゆえに神に感謝します。