38 ロ−マ人の手紙 題 「伝道者の苦悩と希望」 2003/9/28
聖書箇所 ロマ10:16−22
「またイスラエルについてはこう言っています。
不従順で反抗する民に対して、私は1日中手を差し伸べた。」(21)
聖書とイスラエル(7)
パウロは「良いことの知らせを伝える人々の足はなんと立派でしょう」と宣教のすばらしさと尊さを強調しました。けれども私たちが家族や友人に証しをするとき、現実は厳しく理想どうりにことは進まないことを経験します。かえって反発されたり拒否されたり、ひどい場合には「あんたみてたら信じる気しないわ」などと手厳しく非難されて傷ついてしまうこともあります。「親友だと思っていたのに結局わたしを勧誘するためだったの」と誤解されてしまった方もおられます。「親の信仰を押し付けないでよ」と子どもから反発されたり、「神さまが飯を食わせてくれるのか」などと主人から揶揄されたりして、これなら伝道しないほうがかえって「家族円満」、みなすくわれるかなと思ったりしかねません。16節をみるとパウロは「すべての人が福音に従ったのではありません。」と語っています。パウロは伝道者の苦悩を、「だれがわたしたちの知らせを信じましたか」(イザヤ53:1)と、預言者イザヤのことばを引用して語っています。
1 伝道者の困難
伝道を志すものは「この世の不信仰」という壁に直面させられます。旧約時代の預言者、イザヤやエレミヤも神の民イスラエルの不信仰不従順に幾度となく失望させられました。「この民のかたくなさを変えることは豹の斑点を変えるに等しい」と苦悩しています。
イザヤやエレミヤの時代は、預言者は偶像礼拝に走る国王や民の不信仰と対峙しなければなりませんでした。そこにはいのちをねらわれるほどの激しい対決やはりつめた緊張がありました。
一方、今日の日本の教会は偶像礼拝もさることながら、むしろ「相対的世俗主義」と、向き合わされています。世俗主義とは「宗教的な考えや制度が社会的意義を失ってゆく過程」と定義できます。(ローザンヌ宣教 伝送と世俗化)生活が貧しく厳しい時代は社会不安も強いため、宗教活動は活発で信仰も熱心で結束力も強くなる傾向があります。しかし、裕福になり個人化が進むにつれ、人々の精神世界は次第に無宗教的要素が濃くなってきます。宗教を完全に否定はしないけれどその価値は次第にうすめられ、したがって深くコミットしようとはしません。たとえば今日、京都の神社や仏閣はもはやその多くが信仰の対象ではなく、京都の風物詩や古都京都の背景にすぎなくなりつつあります。宗教の空洞化が進んでいるのです。
あるお坊さんが檀家の信徒代表と海外慰問旅行に出かけたそうです。空港で入管の職員が「あなたの宗教は」とたずねてきたので、つい本音が出たのでしょうか、この信徒代表さんは「無神論です」と答えてしまったそうです。入国官と問答になり困った住職さんは「わたしたちは無を信じる宗教者です」と答えてなんとか入国させてもらったそうです。
こういう世俗化の中では、伝道してもはっきりとした応答がかえってきません。「ああそう、それがどうしたの」「フーン、熱心ね」で軽く済まされてしまいます。まさにぬかに釘、暖簾に腕押しのような得体の知れない手ごたえのなさをかんじさせられ、かえって霊的な疲れさえ覚えます。私たちはこのような「世俗化・相対主義」の只中でキリストの福音を語り続けなければなりません。真の伝道には苦悩が伴いますが、パウロもイザヤもエレミヤもこの苦悩を知っていたことを思い励ましとさせていただきましょう。
2 伝道者の希望
しかしパウロはイスラエルの不信仰に対して、なお希望を失いませんでした。
キリストのことばは全地に響き渡っているので、聞いて信じる機会は決して閉ざされてはいないからです。「そのことばは全地に響き渡り、そのことばは地の果てまで届いた」(18)
イスラエルの不信仰には神の隠れたご計画があり、つまづいていることにも「意味」があるからです。モーセやイザヤの言葉を引用してパウロは二つの意味を語っています。「神は異邦人にご自分を啓示され」(20−21)、神の民イスラエルに「ねたみを起こさせた」(19)と。
そして最後に、神は「不従順で反逆する民に向かって、終日、わたしの手を差し伸べている」(イザヤ65:2)と、神の恵みと選びの普遍性を改めて強調しました。
不従順で反抗する民だけれど、それでも神の「哀れみとすくいの手は日夜さし伸ばされている」(21)。これがパウロの希望であり、伝道の力でした。
「神は決してお見捨てにはならない。」そうです、この信頼こそが、伝道の力であり、希望です。
1 したがって、伝道を志す者はこの希望を放棄してはなりません。この希望をしっかりとつなぎとめなければなりません。
あなたが心をこめて救いを祈っている人がいますか。祈のノートにその人の名前が書き記されていますか。聖書やノートに名前を書いて祈ってください。その場合、先週学んだように、「神様、〜さんを救ってください」と祈るのではなく、「神さま、私を〜さんの救いのために、遣わしてください。」と祈ってください。
「つかわされなくてはどうして聞くことが得きるでしょう」と聖書は原則を教えています。遣わされなくては神の言葉を真の意味で伝えることはできないからです。なぜなら遣わされる者には、神の御霊がともにあるからです。聖霊のお働きがなければ誰も「イエスを主」と告白できません。父なる神はキリストのことばをキリストの御霊とともに遣わしてくださるのです。「主よ、私を遣わしてください」これが宣教の祈りです。この祈りが宣教の力となります。
2 目に見える事情がどうであれ、決して諦めないでください。
神の手は終日指し伸ばされています。神様が手を差し伸べておられるのに、私たちが祈りの手を下ろしてはなりません。諦めずに信じ信頼することが、祝福を受ける黄金の鍵です。「信じるならば栄光を見る」ことができます。神が手をさし伸ばしてくださっている限り、機会と恵みは閉ざされてはいないのです。
家族の救いのために、聖書は励ましのことばに満ちています。
家族の中でもしあなたが唯一のクリスチャンであるならば、まさにあなたは家族のために神様から遣わされ尊い存在なのです。あなたは家族にとって「祝福の基」です。家族の救いのための祝福の泉とされています。一人の家族の救いが全家族のすくいにいたる例に聖書は満ちています。
「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:16)
「今日、あなたの家に救いが来た。この人もアブラハムの子なのだから」(ルカ19:9)
「なぜなら、信者でない夫は妻によって聖められており、また、信者でない妻も信者の夫によって聖められているからです。そうでなかったら、あなたがたの子どもは汚れているわけです。ところが、現に聖いのです。」(1コリ7:14)
わたしは信仰を告白していない2人の子どものために祈っています。開拓時代の当初、苦労をかけムリをさせましたから信仰への反発があることも否めません。ですから子供たちが「小さな十字架を背負ってくれたな」と感謝しています。そして十字架を負って歩んだものを神様は決してお忘れにはならないと信じて委ねています。私は、子どもの救いを2段階で考えています。一人の人間として心温かく成長してほしいこと、さらに自らの主体性をもって信仰を告白して神の民の一員となってほしいことです。地上の家族の絆は永遠ではありませんが、天の家族の絆は永遠だからです。
ロマ人の手紙を学ぶとき、パウロの宣教への熱い思いを知らされます。自分の同胞イスラエルのためならば、この身がのろわれ滅ぼされてもいいなどとは簡単に言えないことばです。どれほど彼は同じ血をわけた民族のために祈り、へりくだって仕えたことでしょう。宣教に疲れを覚えたり、伝道の困難に直面するたびに、彼を励ました言葉は、「このまちには私の民が多くいる、」(使徒18:10)でした。
教会は、宣教する神の民の共同体です。礼拝は神への奉仕、宣教はこの世への奉仕として神の民に託されました。終わりの時代、神は東からも西からも御自分の御国の民を招集されています。私の民を集めておられます。集められた神の民は、キリストに属し、まことのぶどうの木であるキリストに結び合わされて、神の民としての生活と奉仕に生き豊かな実を結びます。私たちの希望はここにあります。
祈り
主よ、あなたは失われ行く民を惜しみ、始終救いと恵みの手を差し伸べてくださっています。あなたが手を差し伸べ続けてくださっている間、わたしたちが祈りの手を下ろすことがありませんように、執り成しの祈りをあきらめてしまうことがありませんように支えてください。あなたの栄光を見させていただくまで。
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