43 ロ−マ人の手紙 題 「独自性を活きる」 2003/11/16
聖書箇所 ロマ12:2
「この世と調子を合わせてはいけません。いやむしろ神の御心は何か、すなわち何が良いことで神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」12:2)
キリスト者の生活指針・ガイドライン(2)
毎日新聞にわかりにくい外来語を日本語に直す運動について取り上げられていました。その中でアイデンティティーが従来の「自己概念」から「独自性」へと修正されていました。良い表現だと思います。
今日はこの独自性ということばを要にしてみことばに聞いてゆきましょう。
パウロは12章からキリストにあって生きる神の民の生活のガイドラインを教えています。このガイドラインはまさにクリスチャンがクリスチャンとして生きてゆく「独自性」を端的に現しています。この時代にあって私たちはキリストにある生活の独自性を発揮して生きてゆくことが期待されています。
パウロは「福音にふさわしく歩みなさい」「今は主にあって光となっている。光の子らしく歩みなさい」(エペ5:7)とくりかえし独自性を強調しています。
先週学びましたように、クリスチャン生活の基礎部分は、イスラエルの民と同様に「礼拝」にあります。しかも形式的儀式的な礼拝生活ではなく、神さまへの生きた奉仕をともなう献身的な礼拝生活が強調されました。つまりお客様としての礼拝ではなく、主のしもべとして祈りと献金と奉仕をもって神と教会に仕える礼拝生活が求められたのです。これこそが最も「霊的な礼拝」(1)つまり「理に適った」ふさわしい礼拝と呼ばれました。宗教改革者のルターはこれを「万民祭司」と表現しました。確かに礼拝と献身は神様との関係におけるクリスチャン生活の最たる独自性と言えます。
では、社会あるいはこの世に対する私たちの独自性はどこにあるのでしょうか。パウロは「この世と妥協してはならない」「この世と調子を合わせてはならない」(2)という心構えを提示します。
妥協あるいはこの世に倣うと訳されたことばの語源は「シュン・スケーマ」英語でconform つまり「型にはめる」という意味です。つまりこの世の考えの鋳型にはめ込まれてしまうことです。まるで太鼓焼きのように同じような形に焼き上げられてしまうようなものです。その結果キリスト者としての独自性を失ってしまうことへの警告を発しているのです。
この妥協という言葉に対比する形でパウロは「メタ・モルフェー」「変容する」[1]という言葉を用いました。新改訳では「つくりかえられる」と訳されています。本来「さなぎが蝶に変る」ことに用いられる生物学的用語だと言われています。蝶がさなぎに戻ることが2度とないように「新しい一つの形に形成される」という意味を持っています。
妥協しないで「形ができるまで変容されなさい」、鋳型にはめられないで「常に創造的でありなさい」と呼びかけているのです。「妥協するな」という禁止命令形に従うことは難しいことです。しかし同じことの肯定的表現である「心を新たにして作りかえられよ」という目標をめざす歩みへの招きは受け入れやすく動機づけられやすいと思います。変容するには「心をあらたにされ」なければなりません。
では、「心をあらたにする」とはどのようなことなのでしょうか。
1 大木師は著書のなかで「原点として心にキリストを持つこと」[2]だと説いています。ニグレンという学者は「キリストの心をもつこと」[3]と解説しています。大木師は、真珠貝の譬えを用いてわかりやすく解説されています。あこや貝は体内に原点となる石の核を持ち、その核を中心としてそこに高価な真珠を作り出します。あこや貝そのものは無価値な貝に過ぎませんが、真珠をやがて形成する核を内に持つことによって真珠を生み出します。無価値なあこや貝が高価な真珠貝になるのです。大木氏は「イエスキリストという原点をうちに持つことなくしては転回することはできない。」[4]と語っていますが、私はとても本質的な指摘だと思いました。
心を新たにすることは、人間の決心や決断といった領域の課題である前に、イエスキリストによる恵の御業であることを覚えなければなりません。あこや貝の中に核が入り時間をかけて真珠が造られてゆくように、キリストが私たちの中で形作られてゆくのです。イエスキリストを心に迎えなければ聖書が語る「新しい心は」決して生まれません。ですから原点として「心にキリストを持つ」ことがすべての始まりとなります。イエスさまを心にお迎えください、良きことはみなそこから始まります。
2 あこや貝は核という異物が体内にはいって痛いので和らげようと粘液を出して徐々に包みこむので、異物であった核は次第に丸くなり、やがて美しい真珠になってゆきます。このことは私たちに、失敗や痛みから学びながら自己成長を遂げていくことを象徴的に教えています。これが第二の経験です。失敗したことから、まず赦しを学び、聖霊による助けを頂き、立ち上がらせていただくのです。この貴重な体験を「私にとって苦しみにあったことはしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩119:71)と詩篇の記者は告白しています。
なにごとも最初からうまくいくことなどありえません。結局は多くの失敗と少しの成功から私たちは学び、そして成長してゆくのです。思い通りにことがはこぶというのは頭の中だけの「妄想」にすぎません。失敗しても私たちには主の十字架の赦しがあります。キリストの赦しは7度を70倍するほどの無限の赦しです。ですから赦しの中から学ぶことがいつでもできます。失敗や敗北のゆえに身を隠すのではなく、赦しの中から学ばせていただき、また歩き出すことができるのです。失敗と赦しの中から学んで成長する、ここにもクリスチャンの独自性が輝きます。
第3は、真理のことばによって考え方を変えていただくことです。
心を新たにすると訳された「こころ」は、「感情ではなく知性」「判断力」[5]を指しています。つまりパウロは、「あなたの考え方を変え続けなさい」と言っているのです。ですから「何が善であり神に喜ばれまったきことか」(2)よく分別しなさいと勧めています。
「神さまが喜ばれること」「神さまに喜んでいただけること」はなんだろう、そこを中心に考えることが、クリスチャンのまさに独自性といえます。生まれながらの人間はいつも自分の利益を考えます。どうしたら自分にプラスになるか、どうしたら損しないかと計算します。しかしキリストにあって新しくされた者はどうしたら神さまに喜んでいただけるかと心を砕きます。つまり新しい基準、座標軸、ものさしを持って考えるようになります。考え方の視点が変わるのです。
聖書は、あなたの霊を新たにしなさいそうすればあなたの考え方が変る、考えが変れば感情も生活態度も変ると順序を教えています。ですから生活態度の改善から信仰に入ろうとするのはお門違いです。感情は変えられないが考え方は変える事ができます。御霊によって私たちの内なる霊は新生し、真理のみ言葉によって私たちの考え方は変えられ、キリストの愛によって私たちの生活と感情が変えられるのです。
ある求道者が、「最近、教会に来るようになって不思議なことがおきています。感謝することができるようになりました。以前にはなかったことなのです。傲慢な私には驚きです。」としみじみと語ってくださいました。これは大きな変化です。そして感謝の思いが生まれるとともにこの方はキリストの名において祈ることをお初めになりました。
1テサロ5:16−18に、喜び、祈り、感謝の順序で記されていますが、実際の順番は、まず感謝からはじまり最後に喜びで満たされるのだなと思いました。不満、不足、愚痴、怒りから感謝の思いに変えられることはなんと幸いなことでしょう。ありがとうという言葉にかわって、「感謝します」ということばがクリスチャンの中から世にも広がって、市民権をもちことができればと心から私は願っています。
まとめますが、「心を新たにして変えられなさい」とは、蝶がもうさなぎに戻らないように、基本的なことにおいては信仰的な考え方が「揺るがず、筋が通っており、確立されて」いて、もう戻らないことを指していると思います。外側はしなやかに変化も対応もしますが「内側は揺るぎなく、筋が通っている」、そのようなしっかりした考え方が、成熟した理想的なありかたといえます。このような揺るがない考えは、真理である神の言葉に立っているから培われるのだと重います。
礼拝出席や献金や奉仕においても基本的な考えがしっかり形ずくられているなら、どこの教会に行っても神さまのお役に立つことができます。教団教派が異なり教理の解釈が多少分かれていても、信仰生活の基本的な姿勢に大きな違いはありません。牧師として嬉しいことは日本中どこにいっても通用する信仰生活の基礎を皆さんが宇治教会において身につけていただくことです。それは牧師の仕事の中でも極めて大切な部分だと思っています。
私たちが独自性をもって生きるとは、わたしたちが神の御国の民としての誇りを持って生きることと同じです。どんなことにも誇りをもって生きている人は輝いています。そして誇りは自慢や自信とは異なります。誇りは「すばらしいものが与えられている」という喜びに結びついているのです。土の器にすぎない私たち、賀川豊彦の計算では17円50銭の原料費でしかない私たち、罪深い私たちです。そんな私たちであるにもかかわらず、イエス様は十字架で死なれ、私の義となり贖いとなられました。イエス様以外に誇りとするものはないのです。主を喜びとして歩んで参りましょう。
「しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。 まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。」(1コリント1:30−31)
祈り
父なる神さま、あなたは私たちを特別な存在として愛してくださり、キリストの下に召してくださいました。感謝します。私たちもまた自らの存在において独自性を保ち、キリストの心をもって歩み続けることを導いてください。 アーメン
[1] metamorfousyai th anakainwsei tou noov umwn eiv
metamorfow metamorphoo to change into another form, 現受不定
be ye transformed by the renewing of your mind,
[2]大木英夫 ロマ人への手紙 p404
[3]ニグレン ロマ人への手紙講解 p477
[4]大木英夫 ロマ人への手紙 p404
[5]内村鑑三 ロマ書の研究 p129
心はこの場合においては霊スピリットではない。マインドである。判断力である。物の見方であ る。人生観といい宇宙観というがごときものである。
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