45 ロ−マ人の手紙 題 「思い上がらず慎み深く」 2003/11/16
聖書箇所 ロマ12:3-8
「だれでも思うべき限度を超えて思い上がってはいけません。いやむしろ神がおのおのに分け与えてくださった信仰のはかりに応じて、慎み深い考えをしなさい」(12:3)
キリスト者の生活指針・ガイドライン(3)
パウロはクリスチャン生活のガイダンス(指針)を12章から書き出しています。1節では、まず神様との垂直の関係、すなわち霊的な礼拝について語りました。2節では、社会との水平の関係、特に不信仰なこの世の鋳型にはめ込まれず、独自性をはっきしてゆくことを強調しました。3節-8節では、信仰の共同体である教会との生命的関係について語ります。(ちなみに9節-13節では、信仰の家族、兄弟姉妹との共生関係いついて、14節−21節では信仰の迫害者との和解関係について語っています。)
私たちは、神との関係、社会との関係、教会との関係の中で信仰生活を送ります。それゆえ3つの世界において「バランスのとれた成熟した考え」を身に着けることを神は願っておられます。今日のキ−ワードとしてバランス感覚をとりあげます。後に、「信仰のはかりに従い慎み深く思いなさい」ということばで表現されます。さて教会生活に関して、パウロは使徒としての権威に立って、あなた方一人一人に「言います」と2つのことを強調しました。それは「共同体意識とつつしみ深さ」です。
1 共同体意識
パウロは「あなたがた一人一人」と呼びかけました。クリスチャンは一人の個人として尊重される存在でありつつ、キリストのからだの一つの肢体として生かされている共同体としての存在であることを各自がしっかり自覚することをパウロは願いました。そこで、「わたしたち多くの者たちもキリストにあって一つの体であり、」(4)と語り、「教会はキリストのからだ」という独自の概念を展開します。会社のように雇用関係でなく、家族のように血縁関係でもなく、軍隊のように上下命令関係でもなく、サークルのように好きなもの同士が好きなときに集る関係でもない独自の関係、
それが「キリストのからだとしての共同体」です。一つのいのちを共有しながら、多種多様な肢体や器官から構成され、何一つ無駄なもの意味のないものはない存在がからだです。わたしたちの教会では「多様性の中の一致」ということばでお互いに理解を深めています。キリストを信じ、バプテスマを受けたクリスチャンは、聖霊によってキリストのからだに結び合わされ、たがいに助け合い、補い合い、結ばれて、ひとつのからだである教会を形成し、教会を建て上げてゆくために召されました。
「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」(ガラ3:28)
ある学者が、個人主義が徹底しているアメリカ社会はたとえるならば「さやえんどう」の世界。いったん皮をむくと中の豆はみんなばらばらに散る。一方、日本社会は同じ豆でも「納豆」の世界。情やおかげさまという見えない糸でくっつきあって離れずしっとりと包まれている。もし日本文化が欧米並みに「個」だけが強調されるようになるとたいへんな社会になってしまうと論評していました。女子高校生たちが電車の中でお化粧はする、お弁当は食べる、刺身を広げて食べ始めるそうです。レストランではお互いが腋毛を抜きあっているそうです。人に迷惑をかけなければ、個人として何をしてもいいじゃないという発想が支配的で、共同体の中で生きているという感覚が薄らいでいるからではないかと専門家は分析しています。こんな時代だから、共に集い、共に祈り、共に賛美し、共に食する、こういう初代教会のもっていた生命力、連帯感、一体性を教会の交わりにおいて回復してゆくことは意義深いことだと思います。教会に結ばれた私たちは、父なる神さまから「あなたがた一人一人」と共同体的個人として呼びかけられていることを覚えましょう。
2 つつしみ深さ
第2に、おのおのに与えられた「信仰のはかりと奉仕の賜物」に応じて、思い上がることなく、「つつしみ深い考え」を養うことをパウロは強調しました。
慎み深くと訳されたことば「ソーフロシュネ−」は、ギリシャ哲学では最高の美徳[i]と見なされていました。「つつしみ深さ」は、片手に天秤、片手にぶどう酒と水を混ぜる器をもった女神[ii]としてギリシャでは表現されたそうです。おしとやかさひかえめという対人的な性質を意味することばではなく、最高に高度なバランス感覚、セルフコントロールとしての思慮を意味しているそうです。
すべてのクリスチャンには、異なる信仰の量[iii]と、異なる賜物が神によって与えられています。ですから、おのずと教会にはさまざまな相違が生まれてきます。信仰の歩みも異なり、信仰の成長も異なります。パウロも教会の中に、キリストにある幼子も大人もいること、強い人もいれば弱い人もいることを明らかにしています。しかし弱いものも強いものもキリストにあるかけがえのない存在であることはいささかも揺るぎません。両者に、永遠のいのちも神の国もすでに約束されています。等しく天国に国籍をもつ者とされており、キリストの十字架の救いは完全です。私たちの社会も、赤ちゃんがいて子どもがいて青年がいて壮年がいて老人がいて人間世界がなりたっています。そして誰であっても法の下で、人間としての権利と尊厳を持っていることが保障されています。子どもはまだ半人前、老人はもう廃品、定年後の壮年は粗大ゴミなどといってはなりません。何歳であっても何歳になろうと、一人一人の人権は保障され人格は尊重されなければなりません。
ですから、強い大人のクリスチャンはそうでない人に対して、おごり高ぶってはなりません。また見下したり、批判してはなりません。これが「思い上がることなく慎み深く」という謙虚な態度となります。
一方、弱い幼いクリスチャンは、弱さにとどまるのではなく聖霊の力を願い求め信仰において成長することを積極的に学びとってゆくことを志さねばなりません。幼い者が「このままで何が悪い! 俺は子どものままでいい!」と言い張り、大人としての自覚や責任を放棄するならば、それもりっぱな「思いあがり」と言えます。つらいことも受け止め責任を果たすこと、自己成長を願うこと、それが「思い上がることなく慎み深く」という建設的な態度となります。
信仰のはかりが異なることによって、強いものには思いやりの心が、弱いものには尊敬し学びとる心が養われるのです。尊敬の心を持って学び取ることによって人は成長するのです。こうして教会の中に真実な兄弟愛が育まれるのです。
さて、教会の働きはさまざまの奉仕の賜物によって支えられています。御言葉を取次ぎ信徒を励まし整える預言者、弱い人々への配慮に富んだ奉仕者、キリストの教えをわかりやすく解き明かす教える人、霊的な葛藤の中にある人を勇気づけ励ます人、惜しみなくささげる人、教会の組織や事務をよくマネージネントできる管理者、喜んで無償で慈善活動に携わる人など、教会における大切な7種類の働き人の存在をパウロはリストアップしています。そのほかにも使徒、[iv]伝道者、牧師の賜物もあれば、あるいは監督・執事の職務も存在していました。まだ奴隷制度が強かった2000年前の時代に、身分は奴隷であっても教会の指導者となっていた人々も多く、ロマの市民権や貴族階級の人々が従順に従っていたのです。また賜物をもつ若者や女性の働き人も多く用いられました。当時、教会を訪れた人々は、働き人たちの姿を見てきっと目を丸くしたに違いありません。年功序列や身分階級ではなく賜物による運営が生き生きとなされていたからです。教会の交わりと働きの独自色となっていました。
教会ではこのように、与えられた賜物によってキリストにお仕えするのですから、
1)一人一人に謙虚さが求められました。
2)与えられた賜物をさらに高めて神さまに用いていただこう、喜んでいただこうと純粋に動機づけられ、その結果、向上心も高められたことでしょう。競争心や人からの賞賛を求めて努力するような動機はむなしいものです。
3)他の人の賜物への尊敬と尊重が生まれます。自分とは異なる他の人を理解し受け入れようとする心が養われます。
ある先生が、教会は「オーケストラ」のようなものだといいました。指揮者がいて団員がそれぞれ専門とする楽器を用いて自分の役割を果たし演奏する。指揮者は偉大な作曲家の書いた楽譜を自分の感性にもとづいて読み取り、自分の演奏理念や明確な意図をもって指揮をします。団員は指揮者にあわせて全体的な調和を創造してゆく。それはまさに共同作業といえます。同じ楽団員のなかでも違いがでるかもしれません。バイオリニストがシンバリストに「あんたは1回だけジャーンとやればいいし、それで同じ給料とはひどいよ。たまにはかわってよ」というかもしれません。一方、シンバリストは「それまで待ち続ける緊張感や1回にかける集中力は胃が痛くなるほど。できたらかわってよ。」というかもしれません。実際に二人がかわってみればこれはお互いたいへんなことだとつくづく思うことでしょう。自分に与えられた働きを果たしてゆくことがベストなのです。お互いそれぞれがなくてはならない大切な役割を演じているのですから。
私たちのような小さな教会では、一人で何役も働きを担っていただかなくてはなりません。3年経てば役員の奉仕もまわってくるかもしれません。私は信徒さんに向かって「小さな教会に来たのが間違いだったと諦めてください。」と冗談で言います。しかし、真実は、それは決して間違いではなく、キリストがあなたを必要としておられたから招かれたのです。あなたの働きがきっとここにあり、あなたの役割と居場所がここに用意されているからです。あなたを用いてこの教会を豊かに建て上げたいとキリストがお考えになり、あなたの上に御手をおかれたからです。あなたは特別な人なのです。ぜひ主の御心と賜物をあなたが発見し、主にお仕えなさっていただきたいと願います。
「思い上がることなく、つつしみ深く」、主と教会に仕えて行くことを、
教会のかしらであるキリストは願っておられます。
祈り
主よ、私たちが思い上がることなく、つつしみ深く、考え行動することができますように
導いてください。与えられた賜物と信仰のゆえに謝することを教えてください。
[i]松木治三郎 ロマ人の手紙 p440
プラトンやアリストテレスにとって、思い上がるとつつしみ思うとが対立し、ソーフロネインはもっとも重要な徳の一つとして肉欲・物欲を克服すること、セルフコントロールとして尊ばれた。それはキケロのモデラティオ適度なうことと通じる。パウロはこれをエクシスタスタイ気の狂いと対立させて、気の確かさ(2コリ5:13)を意味している。それはのぼせていないこと、めざめていること、エクスタシス的人間の自己制御を意味している。だからそれは謙虚と結合する。ここにパウロの敬虔のもっとも著しい特徴がみられる。コリント教会には、のぼせて自分の限界を知らない誇りがあった。2コリ10:12−13
[ii]大木英夫 ロマ人の手紙 p415
[iii]松木治三郎 p443
3節のはかりはメトロン、6節のはかりはアナロギア(程度)であり、両者は共通することが多い。つまり預言者も自分に与えられた賜物の限度を超えてはならない。自分の主観的霊感のおもむくままに熱狂的になってはならない。
[iv]松木治三郎 p444
レーナールは、1コリ12:8−11と比較しここにエクスタシス的カリスマに言及されていないのは、ローマ人気質がそのようなタイプの賜物を好まなかったからであろうと問い、まず第1の賜物は預言のそれだと説明している。
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