47 ロ−マ人の手紙  題 「平和に生きる」  2003/11/29

聖書箇所 ロマ12:17-21

「あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
(12:18−19)

キリスト者の生活指針・ガイドライン(5)

クリスマスのイルミネーーションが町中で輝きだしました。「地には平和があるように」との賛美歌の調べが流れ始めます。平和は全人類の願いです。しかしながら今、日本は自衛隊をイラクに派遣するか否かで大きく揺れています。ついにイラク復興のために尽力している2名の有能な外交官が武装集団の銃弾の犠牲になってしまいました。全土が戦場化してしまったイラクにあえてそれでも自衛隊を派兵するか、中止するにしても、平和憲法をもつ日本、世界で唯一の核被爆国日本の「平和主義」が「一国平和主義」で良いのかと鋭く問われ、その答えを出しかねています。

パウロはクリスチャン生活の指針を語る中で、最後に「隣人との平和的共存」について触れてゆきます。帝国の都であるローマでは皇帝が急速に神的権威を強め、「皇帝礼拝」を強要し、従わぬものを「国家への反逆分子」とみなし迫害を加えるような動きが始まってきた時代です。そこでパウロの出した指針は、

「迫害するものを祝福しなさい」(14)「すべての人と平和に過ごしなさい」(18)「自分で復讐してはいけません」(19)というものでした。

これらは理想的理念としては最高のことばです。というのは、現実の人間世界は「やられたらやりかえす」という復讐の論理が圧倒的に支配しているからです。安全保障に過敏になっている昨今では、「やられそうになる前にやっつける」という先制攻撃さえも自己防衛手段として許容されつつあります。やられっぱなしでは生きてゆけない、実力行使も軍備も対テロ戦争も先制攻撃も核兵器の使用も必要だとの考えが、9・11日の同時多発テロ以降、主流になりつつあります。しかしいっぽうでは、果たしてそれが本当の解決になっているのだろうかという真剣な問いも高まってきています。力による解決は本当の解決ではなく必要な一時的な緊急措置ではあるが、暴力と復讐の連鎖をかえって招くだけではないかという問いが投げかけられています。最近のイラク情勢はテロ行為というよりはイラク国民の反米レジスタンス運動ではないかと分析されつつあるなかで、この考えは説得力を増してきています。聖書から今朝は2つのことを学びたいと願います。

1 できる限り、平和に過ごしなさい

パウロは「できる限りのすべての人と平和に過ごしなさい」[]と基本的態度を示しました。実は、新改訳聖書では「自分に関する限りは」と訳してしまっていますが、新共同訳聖書では、「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和にすごしなさい」と訳しています。このことばは、「もしも可能があるならば」という読み方と「できる限り」という読み方ができる[]といわれています。いずれにしろ悪が現実的に存在する時代の真っ只中で、すべての人の善意に信頼して仲良く生きてゆこうとすることは不可能であり「幻想」であり、一方なんでもかんでも力で封じ込めてしまおうというのもまた「狂気の沙汰」です。クリスチャンが示す態度は、「可能な限り」「少しでも可能性が残されているならば」という、「制限がともなった」現実的な建設的選択なのです。

がんばれる範囲まで可能性にかけてゆくこと。いいかえれば平和に生きるためにあらゆる試みに尽力し、もし降りることがあったとしても最後におりること、あるいは平和のための試みには最初に立ち上がることを意味すると思います。例をあげれば、嵐で船が沈没しかかったとき、乗客の安全な脱出を見届けるため、船長が最後まで船にとどまることにたとえられます。つまり一番、最後に降りる人となることです。他の人がさっさと手をひいてもなお平和的共存のために最後まで手を尽くすことです。与えられた範囲の中で可能な限りの手をつくすことです。

ドイツが1940年にリトアニア侵攻した時、シベリア鉄道に乗り日本経由でアメリカに脱出を希望するユダヤ人難民が通過ビザを求めてリトアニア領事館に殺到しました。領事代理であった杉原千畝さんは外務省から禁止命令がでていたにもかかわらず、2139枚のビザを発行して6000人のユダヤ人を救いました。彼に許された権限と時間の中で1通でも多く通過ビザを発行した姿に学ぶことができると思います。すべてを解決できたわけではありません。領事館に殺到するすべてのユダヤ人を救えたわけではなく限りがありました。「許してください。私にはもうこれ以上書けない。」と言って、彼自身が身の安全のために脱出しなければなりませんでした。しかし彼の行為は後にユダヤ人から深く感謝され賞賛され今なお記憶にとどめられています。限界があることを認めつつ、その中で「できる限り」のことをする。神様は私たちにそのことを望んでおられると言えます。

あなたに今、敵対関係の中にある人がいるなら、「和解のためにできる限り」のことを「可能である限りのこと」を心がけてください。そしてあなたにとっての「できる限り」のラインを下げていただきたいのです。かつてペテロはイエス様に得意げに「私たちは7度まで罪を許したらよいでしょうか」と尋ねました。当時、3度まで許せば十分と教えられていたからです。そんなペテロにイエス様は、「7度を70倍するまで赦しなさい」と語り、ペテロが自己納得しているラインを大きく下げました。

「ここまで」、あるいは「これが限界」という自己ラインを下げること、そして可能なかぎり手を尽くすことを、神さまは私たちに求めておられます。「主よ、私に愛することを教えてください。」「主よ、私になお踏みとどまる勇気を与えてください。」「主よ、私に忍耐することを導いてください」と切に祈るならば、聖霊はかならず応えてくださることでしょう。

2 神の怒りに任せよ

人間の怒りや恨みはやがて「復讐」へと心の奥でエネルギーを蓄えてゆきます。そして復讐は生まれながらの人間に深く根ざした罪の性質となっています。怒りをコントロ−ルすることもたいへん難しいことですが、復讐心から解放されることはさらに困難なことといえます。その証拠に、多かれ少なかれ私たちも復讐の思いを実行してきた経験を持っているのではないでしょうか。上司に叱られたあるOLが上司の愛妻弁当をゆさぶって中味をばらばらにして気晴らしをしたそうです。私も高校時代に夏の合宿でしごきまくられた腹いせに上級生のための夜食のおにぎりに頭のふけを一杯かき落としてしかえしをした覚えがあります。復讐などという大げさなものでなくても、腹の虫がおさまらない時、くやしくてしかたがない時、このまま泣き寝入りできない時、「しかえし」をしっかりしたようなことをだれもが経験しているのではないでしょうか。

そもそも人間は自分が受けた害は大げさにうけとめ、自分が与えた害は小さく感じるという傾向を持っていますから、どうしても差し引きすれば「怒り」が残ってしまいます。怒りの感情をコントロールすることは難しいことですから、処理しきれなかった怒りはやがて仕返しや報復、あるいは復讐に向かってしまいます。そして多くの場合、そこから憎しみと暴力の終わりなき連鎖が始まってしまうのです。

パウロは「復讐してはなりません」(19)と命じました。大きな特徴ですが旧約の時代から、聖書は個人的な復讐を堅く禁じてきました。「復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。」(申32:35)。

「目には目を」という有名なことばも、受けた被害に相当する償いをすることを命じた公平な法秩序を重視した戒めであり、決して私的な報復や復讐を教えたものではありません。

「復讐は神のもの」とは、神が究極における最後の審判[]を用意されていることを意味しています。ですから、パウロは「神の怒りに任せなさい」と言い換えています。任せるという言葉は「場所を与える」という意味です。神の審判に任せること、つまり怒りや復讐心に全面的に圧倒されてしまうのではなく、神に場所・スペースを用意し明け渡すことです。もし神の存在や神の審判を信じ、認めることがなければ、任せることなど思いもよらないこととなります。神の存在を信じない不信仰あるいは無神論であれば、神さまに場所をあけることできず、結局自分で復讐するしかなく、復讐するは「我にあり」となってしまうのです。信仰がなければ復讐に歯止めがかからなくなってしまうのです。復讐は神を知らないあるいは神を否定する人々の支配的原理なのです。

パウロは、「誰に対しても悪を報いることをせず」(17)、「すべての人と平和に過ごしなさい」(18)と勧めています。すべての人とは、「未信者、異教徒、迫害者」をも含みます。相手が誰であれ、可能な限り、良きことを考え、共に生きることを求めてゆく、それがパウロの教えでした。

なぜならば、クリスチャンは創造主なるまことの神がおられることを知っているからです。私たちは無神論者ではありません。そして神が究極における永遠の審判者であり、最後の審判が人間には用意されていることを知っています。だから、神の審判に委ねるスペ−スを持つことができるのです。ましてや、天の父なる神様が、私たちの全ての罪を憐れんで赦すために、独り子イエスキリストさえ惜しまず十字架に懸けるほどの愛の神であることを私たちは知っています。そうであるならばなおさら私たちは、「可能な限り」すべての人と平和に生きることを望むべきです。いやそれ以上に、イエス様の御心にしたがい「平和を創る」ことに積極的でありたいものです。

「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」(マタイ59)

祈り

理想論はしばしば挫折と無力感に陥ってしまいます。一方、力による支配は結局、憎しみと暴力の連鎖を強化するだけであることを私たちは十分知っています。パウロは現実的にしかし建設的に問題を処理する能力を持っていました。

「できる限り」全ての人と平和に過ごしなさいとの教えには、人間の持つ罪の故の限界もそして同時に人間の赦しと愛の可能性も込められています。平和を築くために最後まで尽力する一人でありますように。また降りるにしても最後に降りる一人でありますように導いてください。


[]  ei dunaton to ex umwn meta pantwn anyrwpwn eirhneuontev 

If it be possible, as much as in you lieth, be at peace with all men.

できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和にすごしなさい (新共同訳聖書)

[] 大木英夫 ロマ人の手紙 p435

[] 松木治三郎 ロマ人の手紙 p453

   怒りに定冠詞がついている(th orghのは、神の怒りすなわち審判を意味するであろう。

   任せよdote toponは直訳すれば、「場所を与えよ」の意味。

それは自分で神のように善悪を知るものとなり、怒りを遂行するサタンの手下になることである。すべてただ神の怒りにところを与えよ、邪魔するな。

自分の敵が必ずしも神の敵であるとは限らない。私たちの心よりも大きく、すべてをリアルに見、偏ることなく裁かれる神に、復讐の全責任と全遂行とがある。復讐は人の業でなく神のわざである。神に任せよ。


     

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