49 ロ−マ人の手紙  題 「愛の負債に終わりはない」  2004/2/1

聖書箇所 ロマ13:8-11

「誰に対しても何の借りがあってはなりません。ただし互いに愛し合うことについてはべつです」(13:8)

キリスト者の生活指針・ガイドライン(7)

パウロは、「愛」をクリスチャン生活の中心におき、生活のあらゆる領域において「愛」を豊かに深めてゆくことを教えました。8節のことばは、2つの生活態度を教えています。

1       誰に対しても「借り」があってはならない。

かつては、この8節から一切「借金をしてはいけない」と指導がなされたそうです。この場合の借りは、借金を指すのではなく、「負債の義務を果たしなさい」ということが趣旨です。「借りたものを返す」ことは、社会生活の基本的態度です。「借りたものは返すこと」をないがしろにしてはなりません。ちなみにみなさんの部屋や机の中に、借りっぱなしになってるもの、そのままほったらかしにしてあるものがないでしょうか。誰から借りたものかさえわからなくなってしまったものがありませんか。ひそかに時効を狙ってるというようなものがありませんか。借りたものを返さないのは、「盗む」ことと同じ罪を犯しているのです。高校生が平気で自転車を盗みながら「ちょっと借りただけ」と言い訳をするのとにています。人のものを平気で使うこともやはり同罪といえます。

「借りたものは返す」と言う聖書の教えに従い、法的なことはいうにおよばず道義的なことであっても誠実に返却の務めを果たすことを心がけなければなりません。お金や物の貸し借りばかりではありません。最近は人情が薄れてきたともよく言われますが、受けた恩は忘れずに感謝して礼を尽くすことや、お礼は丁寧にすぐにすること、できれば電話で済ますのでなくお手紙をだすこと。こうした礼節を尽くす心をいつの時代であっても忘れてはならないと思います。借りたものは返すこと、それは社会生活の倫理的基盤を形成しています。

2 愛することに「返済完了」はありません。

さて、パウロは「借りたものは返す」という原則に1つだけ例外があることを教えています。借りたものはちゃんと返さなくてはならないけれど、愛の負債には終わりがないのです、つまり愛だけは返し終わることがなくいつまでも返し続けねばならないただ1つの例外事項だということです。

「愛には終わりがある」と多くの人が思っています。この世界は、愛の終わりを告げたり告げられたり、うらんだりうらまれたりする歌で満ち溢れています。「LOVE is OVER」という歌が昔大ヒットしたことがありますがそれは多くの人々の共感を得たからだと思います。愛は終わりやすいから、とっかえひっかえ次の愛を追い求めようとし、その度に新しい愛の出会いを求めます。ところがその愛も3年で古くなってしまうのが人間の現実のようです。

なぜ「愛に終わりがある」と考えてしまうのでしょう。それは、第1に、真実な神の愛を知らないからです。第2に、人間の愛は不完全であり罪の影響のもとに置かれているために壊れやすいためだと考えられます。壊れてしまった愛をあまりにも多く私たちは見聞きし、「愛には終わりがある」と思い込んでしまっているためです。ある俳優が子供のころ、「焼いたさんまが空を飛ぶ」のを見た体験を話していました。両親の仲が悪くいつも夫婦喧嘩がたえない。食事をしている最中に喧嘩が始まりエスカレ−トし、ちゃぶ台はひっくりがえるわ、お箸が飛ぶわ、そのうちおかずのさんまが空中を飛ぶというわけです。最後はお皿までが飛びかうというすさまじいものだったそうです。こんな経験を重ねれば、愛には終わりがあるというイメ−ジがぬぐえなくても仕方ないといえます。

しかし、聖書を通して、イエスキリストの十字架の愛を知るならば、この世の中でなお、愛を信じ、愛に信頼して生きてゆくことができます。どんなに悲惨で惨めな過去を味わっていたとしても、深い心の傷があったとしても、カルバリの丘のキリストの十字架のもとにくるならば、なお希望を見出すことができます。御子を十字架で身代わりに死なせるほど「神が私たちを愛してくださった」事実に偽りはなく、また「神が私たちを愛してくださっている」という事実も確かな真実なのです。

「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」ロマ58

「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ロマ838-39

キリストが私たちを愛してくださった愛を私たちが返済することは不可能です。罪人の私たちが何をもってしても償いきれるものではありません。その意味で私たちは、永遠に愛の負債を背負っています。たとれば、私たちクリスチャンはみな「十字架の愛」というローンを背負っていると考えることができます。住宅ロ−ンは最長でも35年で返済完了すが、愛のロ−ンは天国へ行くまで続きます。ですからもう神様への義理立ては終わった。神様から戴いた愛は全額返済したので完了ということはありえないのです。

3 返済のかわりの互いに分け合うこと

神の愛を返済することは不可能です。そこで神様は私たちに、返すかわりに実際の生活の場や人間関係のなかで互いに「分かち合うこと」を願われました。つまりキリストの愛をもって互いに愛し合うことを新しいキリストの戒めとして命じられたのです。「あなたがたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」
愛は律法を全うし完成させることができます。こうして罪を赦していただいた者にとって、愛は他の人々に分かち合うものとなり、互いに愛し合うことが新しい「義務」となったのです。

クリスチャンは「多く愛されることより、多く愛すること」へと人生の方向が変えられました。欲に変わって愛が人生の新しい力の源となりました。これは実に大きな変化といえます。神への愛と隣人への愛に積極的に生きること、仕えること、働くことが、私たちの大きな「喜び」に変えられたのです。

韓国の8名の社会人の宣教チ−ムがソウルにあるインマヌエル教会から、お正月やすみを返上して奉仕に来てくれました。日本での5日間の宣教は彼らにとって貴重な経験になったと思います。国民の33%近くがクリスチャンで、2人に1人は教会に行っている韓国と、国民の1%しかクリスチャンがいない日本とでは雰囲気がまったく違います。トラクトを受け取っても拒否されて泣き出してしまった方もいます。彼らにとって日本の宣教の難しさを肌で感じ取る貴重な経験となったことでしょう。神と隣人に仕える喜びを改めて経験されたにちがいないと思います。

キリストはあらゆる重荷と罪の負債から、苦しむ者を救い解放してくださいました。そして、愛の御霊で満たして新しい「愛の奉仕」へと彼を信じる者たちを送り出してくださいます。その時、始めてかつては修羅場や戦場のように争いが絶えなかった所にも和解と赦しがもたらされ、麗しく変えられることでしょう。嘆きが喜びとかわるでしょう。怒鳴り声や呟きが、神への賛美に変えられることでしょう。
                  繰り返します。愛には「返済完了」ということばがありません。


     

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