56 ロ−マ人の手紙 題 「祈りによる交わり」 2004/5/2
聖書箇所 ロマ15:30-33
「兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、またエルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなりますように。」(ロマ15:30-31)
パウロは「私のために祈って欲しい」(15:30)とローマ教会の信徒に祈りの支援を求めました。
先週学んだように、パウロはマケドニヤやギリシャ地方の異邦人教会の兄弟姉妹がエルサレム教会の生活に困っている兄弟姉妹を援助しようと心からの愛をもって捧げた献金をエルサレム教会に届けようとしていました。ところがエルサレムでは、ユダヤ教の指導者たちがパウロの命を狙って待ち構えていました。彼らの敵意と悪意から守られ奉仕がまっとうできるようにパウロは祈りを要請しました。さらにせっかくささげられた献金でしたが、エルサレム教会にいる律法主義的な信徒たちの中にはには異邦人に対する根強い差別意識があるため、彼らがいったいどのような気持ちで支援金を受け取ってくれるのか、パウロにも空気が読めませんでした。売名行為と誤解され受け取りを拒まれるかもしれないという心配もありました。ですからパウロは自分の奉仕が敵対者から守られるばかりでなく、主にあるエルサレムの兄弟姉妹からも受け入れてもらえるように祈ってほしいと懇願したのです。
1 問題を祈りの中におく
パウロはローマ教会に祈りを求めたばかりでなく、おそらくコリントやマケドニア、ガラテヤの教会にも祈りを求めたことでしょう。それらの教会の兄弟姉妹もパウロのために、「御霊の愛」において切に祈ったことでしょう。
パウロはこのように兄弟姉妹と祈りにおいて一つに結ばれ、あらゆる問題を祈りの中におき、祈りの中で解決することを兄弟姉妹と分かち合うことができました。パウロと主にある兄弟姉妹は、祈りこそが神がご用意してくださった最善の解決手段であることを互いに確認することができていました。
私は、「パウロは牧会の成功者だ」とつくづく思います。なぜなら、教会の信徒とともに、教会が直面するあらゆる問題を「祈りの中におき、祈りの中で解決する」ことができたからです。教会の中にこの一事が根づいていたなら、その牧師はパウロ同様、牧会の成功者だと言えると思います。
反対に「牧会の未熟者、失敗者」は、祈りではなく人間的方法で解決しようとする人のことを指します。祈りではなく、この世の知恵や計算や人をうまく操作することで解決しようとします。
しかしながら「祈りによって」解決したことと「人間的方法によって」解決したことのあいだには決定的な違いがあります。後者には「神が生きておられ、私たちの祈りに応えて働いてくださった」という聖なる感動と大きな感謝が伴わないからです。その結果いつしか教会の体質が変化してゆくのです。教会が徐々に無力、無気力、無感動にされ、弱体化されてしまいます。特に大きな問題がないのに教会が力を失ってゆくような場合、目に見えない原因の一つがここにあるのではないでしょうか。
反対に、「神が祈りに応えてくださり、私たちの思いを超えてこんなに大きなすばらしいことを成し遂げてくださった!」と言う証しとその中にあふれる喜びと感謝が、教会をいきいきと成長させ強めてゆくのではないでしょうか。
私たちの教会は今、転換の時を迎えています。教会のシステムと体質を変化させるときを迎えているように思います。そのため役員が中心になってシステムの見直しを進めてくださっています。本当によくやってくださっています。そこで、教会員である私たちは、キリストの尊い救いを頂いたあの「初めの愛」に立ち返り、あらゆる問題を「祈りの中におき、祈りの中で解決する」という霊的体質を回復してゆくことを互いに祈りあう必要があると思います。
2000年前、イエス様は神殿から商売人を追放されました。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』と書いてある。それなのにあなたがたはそれを強盗の巣にした」(ルカ19:46)。
神殿ばかりでなくイエス様は、教会が祈りの家となることは願っておられると思いますが、私たちはイエス様の願いに十分、お答えできているでしょうか。
ちなみに皆さんは最近、祈りのリクエストを兄弟姉妹と分かち合われたことがあるでしょうか。牧師に祈りのリクエストを願ったことがあるでしょうか。一人で祈りひとりで解決する自己完結的な祈りを現代人は賞賛するかもしれません。個が確立すれば「ともに祈る」ことは不要とされるのでしょうか。しかし聖書は、兄弟姉妹がともに祈りあう祈りについて多く記しています。
「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19-20)
共に祈りあう祈りの交わり、これが教会の交わりの原点です。この祈りの交わりは現代において回復されなければなりません。
礼拝後、遠慮なく「私のために祈ってください」と兄弟姉妹に向かってリクエストしませんか。あなたの周囲にはきっとあなたを助けてくださる祈り手がおられます。祈りのノ−トに書き込んで祈り続けてくださる方が私たちの教会には何人もおられます。霊的な助けを伝え、分かち合いましょう。
「私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求めましょう」
(ロマ14:19)
もし個人的に牧師にだけ祈っていただきたいことがあれば祈りのリクエストを紙に書いて私にそっと渡してください。牧師の名において私は祈ることをお約束します。キリストの御国の祭司としての務めを私に与えてください。祈りの御奉仕においてもっと牧師を忙しくしてください。そして、祈りが聞かれたら神様にささげものを携えて心から感謝してください。
2 問題の解決者はキリスト
「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19-20)
このイエス様のことばには、「私もその中にいる」というすばらしいお約束が明確に記されています。「私がいる」と復活された主が言われるのです。主がおられるのに解決できないことがあるでしょうか。主がおられるのに主がおられないかのように不安がる必要があるでしょうか。主がおられるのに主が無力であるかのように嘆くのはなぜでしょうか。主がおられるのに主に従いますと告白できないのはなぜでしょうか。
主イエスが乗り込まれた船がガリラヤ湖に進み出たとき、突然の嵐に巻き込まれました。あたかも船は波間に沈みそうに思えました。しかし決して波に打たれ壊れることも、沈没することもありませんでした。暗い嵐の夜を過ごしても、望む港に弟子たちの乗った船を導かれました。
地上の教会はどんな教会であってもこの世の力とサタンの襲撃の中におかれます。教会の成長や変化に伴い教会内部にもさまざまな問題がおのずと起きてきます。問題がおきない教会は死んでいる教会だといえます。問題が起きてくることは教会が生きている証拠でもあるのです。ですから問題があることを問題にする必要はありません。問題をどう解決するか、それが真の問題です。そしてその答えは「問題を祈りの中におき、祈りの中で解決する」ことにあります。祈りの交わりの中に「私はいる」とイエス様はお約束してくださっています。問題の解決者はイエス様であると信じるなら、どんな問題にも道が開きます。
「終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。聖なる口づけをもって、互いにあいさつをかわしなさい。すべての聖徒たちが、あなたがたによろしくと言っています。主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように」
(2コリ13:11−13)
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