7 ロ−マ人の手紙  題 「神の慈愛に導かれる信仰」  2002/12/1

ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行なっているからです。私たちは、そのようなことを行なっている人々に下る神のさばきが正しいことを知っています。そのようなことをしている人々をさばきながら、自分で同じことをしている人よ。あなたは、自分は神のさばきを免れるのだとでも思っているのですか。それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。ところが、あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。 (ロマ2:1−5) 


パウロは1章で異邦人の最大の罪である偶像礼拝を指摘し、2章からは神の選びの民であるユダヤ人の最大の罪である霊的な傲慢さに触れてゆきます。そしてその前に、異邦人にもユダヤ人にも共通する人間の根源的な罪について触れます。パウロはここで「他人を裁きながら自分は正しいと主張する自己義認」という罪を明らかにしてゆきます。

「ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。裁くあなたがそれと同じことをしています」(1節)

自分は正しいし間違ってはいない。悪いのは相手だと裁く人々を自称義人といいます。彼らは自分は正しいと主張しますから罪の自覚がありません。さらに自分は正しいけれど相手は間違っていると非難して裁きます。神様の前に一番厄介で始末の悪い人々です。この手の代表者たちはパリサイ人や律法学者と呼ばれた人々でした。イエス様はこの手の人々を嫌われ「偽善者」と手厳しく非難されました。パウロも「あなたは、かたくなさと悔い改めのない心のゆえに、御怒りの日、すなわち、神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げているのです。」(5節)と警告しています。

「自分を義とし他人を裁く」というのは、ユダヤ教のパリサイ人や律法学者だけのことではなく、生まれながらの人間すべてに共通する根源的性質ではないでしょうか。たとえば、訴訟社会アメリカでは何か不都合が起きればすぐに裁判で争う習慣があるようですが、マクドナルドでコ−ヒ−を注文した老婦人がカップのコ−ヒ−をひっくり返し火傷をしてしまいました。彼女は「こぼれてやけどするような熱いコ−ヒ−を出す店が悪い」と訴え、億単位の賠償金を勝ち取ったそうです。これは「企業はつねに社会的な責任を果たさなければならないという企業責任に対するみせしめ的警告というアメリカ独自の法律概念が背景にあるためだそうです。マクドナルド側は即座に倒してもこぼれないカップを製造してしっかりと対応したそうです。たばこが体に悪いと知っていながらタバコを売り続けていた会社を、たばこが体に悪いと知りながらすい続けていた男性が訴えて勝訴したり、電子レンジにシャンプ−して濡れた犬をいれて乾かそうとした女性が犬が死んでしまったため「電子に犬をいれてはいけません」と説明書に書いてなかったからと製造会社を訴えてやはり勝訴したそうです。

人間同士の争いでこうしたことがやり取りされ弁護士が活躍するのはいいとしても、神様の前に同じような態度で自分を正しいと言い張ってはなりません。そこには、神の怒りと終末的審判が待っているからです。言い張れば言い張るほど、「神の正しいさばきの現われる日の御怒りを自分のために積み上げている」ことになります。

自分を義とし、自分の罪を自覚できず、平然と他人を裁くことができるのは、結局のところ「まことの聖い神を恐れる」心を失ってしまっているからだと思います。

現代人は一方ではさまざまな偶像礼拝に走り、一方では神様などいてもいなくてもどちらでもいい、宗教などはたいした問題じゃない。むしろどうしたらお金が手に入り、好き物が買え、好きなことができて、面白楽しく過ごせるかといった類の現世主義に支配されています。これを世俗化現象といいます。お金と物の豊かさを追求する大衆消費文化が世俗化をますます進行させ、社会そのものを脱宗教化させてきました。世俗化は宗教をいのちのない形式的なものにし空洞化してゆきます。りっぱなお寺や神社があってももはや、それは町の中の「風景」にしか過ぎないのです。お守りや十字架さえも「ファツショングッズ」とされるのです。世俗化が突き進む中で回復しなければならないのは、神を恐れ敬う心、神の聖さを求め、来世いのいのちを求め、神の怒りと審判を恐れる心です。ひとことでいえば、「まことの神に帰り、神を恐れ敬う心を回復すること」つまり「悔い改め」を指します。

悔い改めというのはきわめてキリスト教的用語ですが、「人生の根本的な方向転換」を意味する言葉です。ヘブル的表現で言えば、「神に立ち返ること」です。しかも、ご利益を求めて帰るのではなく、神の審判と怒りを恐れて立ち返ることです。カルバンは「神の裁きの前に立つこと」と言いました。

「あなたがたの先祖の時代から、あなたがたは、わたしのおきてを離れ、それを守らなかった。わたしのところに帰れ。そうすれば、わたしもあなたがたのところに帰ろう。」(マラキ3:7)

悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」(イザヤ55:7)

明治大正の時代に日本のキリスト教の精神的指導者であった内村鑑三は、「審判の恐れなきところに真正なる宗教はおこらない。」「およそ偉大なる宗教家は一度は審判の恐怖にいたく心を脅かされた人である。審判を恐れずて真の敬虔はありえない。神を恐れ、未来を恐れるにいたって初めて人の魂は目覚めたのである。」(ロマ書の研究 p113)と語りました。

神を恐れるといっても、いたずらに恐怖心を植えつけることではありません。人は神の審判の前に立つ時、自分は正しいなどと主張できない破綻しきった自己を発見します。聖い神の前にはもはや救いようのない絶望的状況にある自分を知ります。実はそれがありのままの自分の姿なのです。そして真の敬虔さは自分の霊的破産状態を真に自覚したところから始まります。この絶望的な無力さ、深刻な自己破綻状況の只中で、実は罪びとが始めて「キリストにおいて神が差し出された福音」を、本来の意味において聞くことができるのです。

「神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、

その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」(4節)

ここで大切なことは、絶望的な自己破綻状況の中で、私たちが真剣に悔い改めるというのではありません。もちろん私たちが心から改悛する、反省する、後悔する事は大切なことですが、それでは弱いのです。無力なのです。聖書は、神の圧倒的な慈愛が悔い改めに導くと神の御心を教えます。罪を自覚した者に神の慈愛が出会うとき、いのちに至る悔い改めが生じるのです。悔い改めもまた神の愛の働きなのです。

バルトはそれは純然たる絶対的な垂直の奇跡である」、説明しがたい神の忍耐と寛容さとして理解するしかないと言いました。神の慈愛が上からの恵みとして、自分が正しいなどと主張できない者の心をとらえたのだ、それ以外に説明の仕様がないというのです。

罪人ということばは、なかなかなじまない表現です。ですから、「自分は正しい、神の前にも人の前にも義人であるなどと主張できない者」と置き換えてほしいのです。人の前にということばを親や家族の前にと置き換えてもいいでしょう。そうすればリアリティをもって、ほかならぬ自分自身のことだと素直にうけとめることができるのではないでしょうか。神の慈愛はそのような自覚を持った者を決して捨て置かれません。滅びに渡されません。しっかりと出会い、とらえてはなさず、キリストの十字架の下に招き、罪を赦し、傷を癒し、天にひきあげてくださるのです。これが福音なのです。

イエス様はある時、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マルコ2:17)と言われました。最も聖い神様である御子イエス様が、ほんらい一番遠い存在であるはずの罪人の近くに来てくださったのです。一番遠いはずの罪人を一番近くに招いてくださったのです。

神の御子イエスキリストの御降誕、この出来事の中に神の慈愛があふれています。御子イエス様がベツレヘムにお生まれになったとき、羊飼いが真っ先に御子が宿る家畜小屋に招かれました。当時羊飼いは同じユダヤ人でありながら住民登録さえ認められないほど社会から見捨てられた罪人たちでした。一番遠いはずの罪人が、真っ先に救い主の下に招かれ、救い主と出会い、礼拝する特権を受けたのでした。

私は大学3年のクリスマス前に教会に通うようになりました。クリスマスの集会後、先々週証しをしてくださった景山兄が個人伝道をしてくださいました。「神の御子イエス様は汚い飼い葉おけの中に生まれました。それは私たちの罪に破れ汚れた心を指しています。小出さんの心は清いですか。」

私は、当時、飲酒運転をして人をはね、その相手が刺青のあるダンプの運転手たちでしたから、うそをついて示談交渉し、最後にはその相手と共謀棒して保険会社からお金を騙し取っていました。ですから、自分が正しい人間などという自覚はもてませんでしたので、「心が清いですか」などといわれて顔があがりませんでした。

そのとき兄弟が、「その罪に破れ、汚れた心にイエス様は救い主として宿ってくださるのです。それが神様の愛なのです。けれどもそのためにイエス様は十字架で刑罰を受け、身代わりとなって死なれたのです。」と福音を語ってくださいました。私はそのとき、「なんとありがたい」ことだろうかと思いました。

お茶を飲んで楽しい話をするのが交わりではありません。暖かい雰囲気の中で、「福音」を分かち合うことが真の交わりなのです。その交わりの中に御霊が働き、心の目を開かせ、魂をゆさぶり捉えるのです。

もし清くなければ神様から愛されないと言われたら、教会に居場所がなくなってしまい、悲しい思いで教会を後にしなければならなかったことでたしょう。そしてもう2度と教会の門をくぐらなかったかもしれません。自分の罪深さに悩む私にイエス様は、圧倒的な神の慈愛を教えてくださり、十字架の愛と赦しを理解する者としてくださったのです。こうして私も神の慈愛に捉えられ悔い改めに導かれたのでした。

自分を正しいと言い張って神から一番遠い存在になってしまってはなりません。

自分を義として相手を裁いてはなりません。むしろ、神様の審判を恐れつつ御前に立ち、神の慈愛の豊かさに満ちた「恵みの福音」を証しする人とさせていただきましょう。


                                    祈り

主よ、あなたは上からの圧倒的な慈愛をもって私たちを捉えてくださり、悔い改めへと導いてくださってありがとうございます。

     

Copyrightc 2000 「宇治バプテストキリスト教会」  All rights Reserved.