元気の出るダイアル 2020年3月1日 じっと見てさわったお方
日曜日の朝の礼拝では、新しくヨハネの手紙を学びます。
ヨハネはイエスの最初の弟子のひとりで、イエスのそばにいつも寄り添いイエスの愛する弟子と呼ばれました。それゆえ老いた母マリアをイエス様から託されるほど親しい交わりをもった人物でした。まさにヨハネにとってイエス様は、直接「聞いて、じっと見て、手でさわった」(1)ほどの親密な関係の中で、3年半寝食を共にした最も親しい交わりをもったお方でした。
ですから、「イエスの行われたことを書きしるすなら世界もその書物をいれることができない」(ヨハネ20:25)と語るほどの目撃者、生きた証人であったといえます。
ですから、ヨハネは直接自分が聞いたこと、見たこと、触れたことを、伝えざるを得なかったのです。ガリラヤ湖出のイエス様との出会いから、カルバリの十字架の死、そして空になったアリマタヤのヨセフの墓とイエスの栄光に満ちた復活の目撃者として。100人の推論者よりも一人の目撃者のことばほど力強い真実はありません。
しかも、1節の「じっと見た」は「肉眼で見た」というよりは「心眼」でじっと凝視した、熟視した、本質を見つめたという意味です。このお方は、「初めからおられた方、いのちのことば、永遠のいのち、御父とともにあったお方」(1-2)すなわち「神の御子・キリスト」であるとヨハネは誰よりも確信し、大胆に宣言しています。
宗教改革者カルバンは「人々はキリストのうちに父なる神の栄光が、神ご自身の生きた姿で輝いているのを見るのである」と信仰の本質を語りました。
聞いたまま、見たまま、体験したままを語らざるを得なかった。弟子たちの情熱の源泉はここにありました。
キリスト教は神話ではなく、宗教や哲学でさえありません。人間の知恵をもって造り出された物語ではなく、神がこの歴史の中でなさった驚くべき神のみわざの告知、救いの事実の宣言にほかなりません。 ここに聖書の持つ確かさとダイナミックスさがあります。
ヨハネがじっとイエス様を見続けたように、私たちもじっとこのお方に目をそそぎましょう。
地上で私たちが目にするものは揺れ動き、めまぐるしく移りかわります。問題が生じるたびにこころが騒ぎたち、不安や恐れにとらわれやすいお互いです。恐れは心の闇です。心に光を失えば、ますます感情も考え方も否定的破壊的なっていき、生きる力や喜びを失っていきます。何とかしなければと焦り、なにか楽になる手立てはないかと、あれこれ目移りしていきやす私たちです。
しかし、こんなときこそ、イエス様を信頼するのです。「このお方こそ神の御子、癒し主、すべての導き手」との信頼をイエスの聖名におくならば、心は落ち着きます。「大丈夫だ」との平安に包まれます。新型肺炎の感染症が世界中に広がりました。学校も今週から一斉休校となりました。観光客は激減し旅行会社、ホテルやレストランなどのサービス業ではキャンセルが相次ぎ業績が落ち込み、閉店や廃業を考えざるをえない中小企業も増えているとのことです。働く人々にとっては失業など、生活を取り巻く環境が揺れ動いています。終息のめどは全く立っていません。
でも、主イエスは「任せよ」「恐れるな」「安かれ」と揺るぐことなく呼び掛けてくださっています。さあ、今こそ、イエスこのお方にじっと目を注ぎましょう。心の目を開いて。
「信仰の完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(へブル12:2)