元気の出るダイアル 2020年3月8日 イエスと共に光の中を
コロナウィルスによる新型肺炎が拡大しています。皆様とご家族の健康が守られますようにお祈りいたします。
1. 神は光です(5)
神のご本質の一つはひかりです。光と闇が神の中で同時に混在することはできません。神の住まわれる天国に地獄が混在することはありえません。永遠のいのちと死とが混在することもありません。そうであれば天国でお葬式を出さねばならなくなります。天国の1丁目1番地は天国ですが3番地からは地獄になるので、これから先は立ち入り禁止区域という規制線が引かれることになってしまいます。
したがって、神と交わりを持つものたちも光の中を歩み、闇の中の歩むことはできないはずです。けれども、キリスト者として学んでいる聖書の教えと実際の生活や行いがまったく一致しているわけではないこと、はずかしいほど乖離してしまっていること、願いや祈りとはうらはらに、実際は自分でもなさけなるほどギャップがあることを、罪のない完全なきよい生き方をすることなどは正直できないのです。誘惑に負け、失敗し、周囲の人を冷たい言葉で傷つけ、しかもそのことにさえ気がつかず平気で過ごしています。悪いのは自分ではなく相手だと責任転換し、自分の保身に走って友を裏切ったりしています。敬うべき自分の親を愛することができず、最大の親不孝という罪を犯し続けています。そうした闇の部分だけを見れば、暗澹たる思いに陥ります。約束の天国がはるかかなたに消え去ってしまいそうな不安やおそれにとらわれそうになってしまいます。でもここから希望が始まるのです。だから大丈夫です。
2. 御子イエスの十字架の血潮
天からの恵みの声が響き渡るのです。「主イエスの血はすべての罪からきよめます」(第1ヨハネ1:7)と、赦しの宣言が力強く語られます。イエスの十字架の血潮のみが、私たちが光に中を歩み、神との交わりをもつことを可能にしてくれるのです。イエスの血が赦すことができない罪などはひとつも存在しないからです。過去現在未来にわたるすべての罪が十字架の血によって赦され、きよめられるとの力強い、恵みの宣言を、私たちは聞くことができるのです。
ある女性は妊娠に気がつかず強い薬を飲んでしまい、悩んだ末に胎児を下ろしました。それ以来いろんなお寺で水子の供養をしましたが心の安らぎを得られませんでした。あるとき教会に導かれ、このことを「私の神の前における罪」と自覚し、神に告白し、イエス様の十字架の赦しを信じました。その時から彼女の心は平安に満たされ回復されました。
「もし自分の罪を言い表するなら、神は真実で正しい方ですからその罪を赦し、すべての悪からきよめてくださいます」(1:9)と聖書は、光である神との幸いな交わりの中に招いてくださっています。
イエス様はやみの世の中で、罪の中に生きる私たちの「いのちの光」、「世の光」となるために世に来てくださいました。イエスを救い主を信じ、バプテスマを受け、「神の子供」とされた私たちは、「世の光」であるイエス様と共に日々歩むことを通して、「光の子供」として生きることができるのです。
私たちは天の御国に入るその栄光の日まで、生涯、失敗し、誘惑に惑わされ、罪を犯し続けることでしょう。しかし、生涯十字架のキリストを見上げ、罪の赦しときよめを、その罪を告白するごとに豊かにいただき続けるのです。これを「恵み」といいます。
神の子供たちの全生涯は十字架のもとにひざまずく、悔い改めの日々(ルター)なのです。
さあ、神のことばをお聞きください。
「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。【主】が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を【主】に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」(詩篇32:1−5)
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