元気の出るダイアル  2020年3月22日    キリストが歩まれたように

最近は「歴史物」と呼ばれるジャンルの本やドラマやトーク番組がブームになっています。「激動する現代社会をどのように生きるか」多くの人が模索しており、その答えを歴史上の人物の中に見出そうとしている表れではないかと私は思います。身近な人々の中に尊敬できる人や逆境や苦難を乗り越えていく真のリーダーの姿を見出せないからといえます。
私は子供のころ、「世界の偉人伝」を読むのが大好きでした。架空の人物ではなく、歴史上の人物に関心があったからです。わくわくしながら読みました。ところが大人になるにつれ、詳細な足跡や私生活を知るにつれ、だんだん感動も色あせてきました。
自分勝手で家族を困らせたり、癇癪持ちで暴力をふるったり、金銭感覚がひどく乱れていたり、女道楽やお酒やギャンブルにおぼれていたり、たたけばほこりがいっぱいでてきて決してほめられたものではないことがわかってきたからです。未来ある少年少女のために多くは美化され、粉飾され、神格化されています。まさに、事実は小説より奇なりでした。

そんななかで、変わらない存在は「イエスキリスト」でした。キリストの誕生や十字架の死の挿絵などが深くこころに残っていたのです。中学生の頃、「私の尊敬する人」という作文に「父、長嶋茂雄、イエスキリスト」と書いた覚えがあります。イエスキリスト、このお方は不思議と私の心の中に幼い時から存在し続けてくださっていた不思議なお方です。私だけではなく、多くの人々にとって、やはりイエスキリストは特別な存在、なにか心ひかれる存在ではないでしょうか。

「この人を見よ」(ヨハネ
197)(ラテン語でエッケ・ホモ)は有名なことばです。ローマ総督ピラトは、神を冒涜する者として裁判にかけられたイエス様を取り調べても何一つ罪を見出すことができませんでした。そこで激しく彼を鞭打ち「これでじゅうぶんではないか」と、彼を釈放しようと考え、「この人を見よ」と群衆に訴えました。ところが、群衆は「イエスではなく、強盗のバラバ」を赦せと叫びはじめ収拾がつかなくなってしまいました。この世はバラバを見て、イエス様を見ようとしないのです。バラバを英雄と認めても、イエスキリストの真の価値を見出すことができませんでした。盲目と無知の暗闇と罪の中にいたからです。

激しく揺れ動き変動する現代、未来が見えない不透明な社会の中で、どう生きていったらいいのか、どう歩んでいけばいいのか、困難や試練の中にあって真実なリーダーシップを発揮する指導者をどこに探せばいいのか、人々は探し求めています。人の中にその答えを求めようとするものはやがて失望させられます。神の御子キリスト、過去2000年間、この方の中に教会とクリスチャンたちは真実と希望と愛を見出してきました。「この人を見よ」、この人の中に「救いがある、道がある、いのちがある」と語り続けてきたのです。

かつて武力で世界を支配したナポレオンはやがて失脚し、島流しにされ、どん底の中で子語ったそうです。「余は力で世界を支配し、力で敗北した。しかしイエスキリストは愛で世界を支配し、彼の御国はとこしえに続くであろう」と。

あるとき3人の弟子たちだけを連れてキリストは高い山に登り、栄光に包まれた本来の姿をお見せになりました。感動し恍惚状態になっていた弟子たちに、神の声が厳かに響きました。
「これはわたしの愛する子、彼に聞け」と。

イエスキリスト、このお方と出会い、見るだけでなく、このお方の声を聴き、学び、従うならば、おそれや不安は平安に、悲しみも喜びにきっと変えられていくことでしょう。
私たちの人生もまた、キリストが歩まれたように歩む人生なのですから。

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