**元気の出るダイアル**  2020年6月7日



今日から教会は高齢者対象の午前礼拝と一般成人対象の午後礼拝を開始します。4月のイースター礼拝後、ほぼ2か月振りの礼拝となりました。あたりまえのように礼拝をささげ、語り合い、食事をともにしていましたが、「ふつうのことが特別のことであったこと」を実感させられた日々でした。 本日の聖書の箇所をお聞きください。

「キリストのうちにとどまる者は罪のうちを歩みません」(6)です。なぜなら、キリストがあらわれたのは罪を取り除くためであったから(5)使徒ヨハネはこのように強調しています。神の御子キリストがお生まれになった目的はただ一つ。十字架で罪のみがわりの死・あがないの死を遂げるためでした。私たちは自分が長生きをし、幸せになるために誕生します。ですから、子の誕生は両親にとっても祖父母にとっても喜びとなり、お祝いとなります。しかし、イエス様は十字架の上で死ぬために誕生し、自分のためではなく他の人々を永遠の幸福に導くためにお生まれになりました。父なる神様にとってそれは深い悲しみでした。父なる神様の愛には犠牲が伴いました。御子の誕生と苦難はすでに700年前にイザヤによって預言されていました。

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」(イザヤ534-5

イエス様は33年半の聖い生涯を全うし、死刑台となった十字架の上で「父よ彼らをお赦しください」と祈られ、「すべてが成就した」(ヨハネ1930)と勝利を叫ばれ、霊を父に委ねて息を引き取りました。こうして贖いの完全成就を宣言されました。このイエス様を信じる者は罪の中を歩み続けることはできません。何一つ罪をおかされなかったかたを「わが主、わが師」と仰ぐクリスチャンは罪を犯すことはできないのです。

そもそも聖書が記す「罪」とはなんでしょう。感染防止のための「3つの密(密閉・密集・密接)を避けましょう」の標語はわかりやすく心に残りました。罪は、聖書的に3つの内容に分類できます。法律違反としての犯罪、恨み・憎しみ・軽蔑・無慈悲といった道徳的違反としての精神的罪、さらに神のご意志に反する根本的な背きの罪(原罪)の3種類があります。もろもろの犯罪や道徳的罪以上に、旧約聖書が教える最大の罪、律法違反、不法とはなんでしょう。「神を愛さない」ことです。「心を尽くして主である神を愛せよ」(申命65、マルコ1229-31)との戒めに反することです。

イエス様は「こころを尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」、それが父なる神の御心であり、戒めであると教えました。律法という画一的な基準に則るのではなく、あなたに対する聖霊の導きに従い、あなたにしかできない「心を込めた」「ベストを尽くした」精いっぱいの愛で、神様を愛すること、これこそが私たちが生涯、もっとも大切なこととして保持しつづけるべき「神の戒め」なのです。〜してはならないことを厳守するのでなく、〜べきであることを積極的に実践し続けることが神から生まれた「神の子」たちの歩みであることを覚えましょう。

それは、あなたのベストを尽くして神を愛すること、神に祈ること、神と語り合うこと、神に信頼すること、神に仕えることにほかなりません。 

今日から、ともに集う「礼拝」が新しくはじまりました。共に集い、「神を愛する」日々を今日からまた新しい思いで、歩みださせていただきましょう。主の栄光を仰いで。

表紙に戻る