**元気の出るダイアル** 2020年6月14日
愛はやさしい想像力を働かせること
マザーテレサは「愛の反対語は憎しみではなく無関心です」と言いました。神に対する罪の反対語は神を愛することです。こころを尽くして、思いを尽くして神を愛しなさいとの命令は、旧約聖書の教えであり、新約聖書における主イエスキリストのもっとも大切な教えともされています。そして使徒ヨハネはその教えを深め、「神を愛しているしるしは、神の家族である兄弟を愛することのなかに認められるのだ」と諭しています(ヨハネ第1の手紙3:15-16)。
兄弟が困っているのを見てあわれみの心を閉ざす者に神の愛はとどまっていません(17)、「私たちはことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか」(18)と呼びかけています。口先だけの愛は「リップサービス」にほかなりません。中身のないスカスカの「ピーマン」のような愛といえます。
ある牧師が「愛は形容詞ではありません。動詞です」と言いました。美しい飾り言葉ではなく、実際に手足を動かすこと、時間とエネルギーと労苦をささげることです。「お祈りしています」ということばをリップサービスにしてはいけません。「祈りはやがて行動となります」。英語で表現すればPRAY(祈り)とPLAY(行為)はまさに双子なのです。
こんな話があります。天使が天国の門で一人一人に握手をして笑顔で迎えました。しばらくして箒をもってきて門の前をせっせと拾い集めはじめたそうです。困った顔をして。なせなら「口」ばかりがたくさんたまっていたから。どうやら口だけは救われて天国に入った人が多かったようです・・。
ヨハネが生きた時代は裕福な貴族階級や自由市民と貧しい奴隷階級という階級・身分差別が存在していました。古代の資料によれば、イタリアでは4人に3人は奴隷、1日1万人の奴隷が一人500円で売買されていたそうです。貧富の差は想像を絶するほど圧倒的でした。ひとたび疫病でも流行ろうものなら、高価な薬など買うことも医者に診てもらうこともできず、見捨てられて行きました。人権や福祉に関する思想もなく法律や制度なども整備されていませんでした。そんな時代に教会に集うクリスチャンの多くは身分的には奴隷階級の人々だったと言われています。数少ないながら貴族階級や裕福なクリスチャンたちは、自分の富を貪るのではなく、持てるものを提供し、貧し人々を精いっぱいサポートしたのです。初代教会は、圧倒的な聖霊の愛に満たされ、いっさいのものを共有し、資産や持ち物を売り払って分配していた(使徒2:44-45)と記録されています。聖餐式と愛餐会も同時に行われ、愛餐会の食事は貧しい人々ややもめや孤児や病人たちにとっては、1日1食の「いのちをつなぐ」食事でもあったと言われています。
「あわれみの心」とは、困っている人を助ける同情、お情けといった上から目線のレベルのことばではなく、「消えゆく可能性のあるいのちを精いっぱいつなぎとめる」医療的行為でもあったといえるのではないかと思います。そもそも、「病院」(ホスピタル)の語源は「おもてなし」であり、「巡礼や旅人をもてなす宿」(ホテル)と同語源です。教会から病院は始まったともいわれています。天国へ行くための最後のいのちをつなぎ留めてあげる場所でした。回復して元気になって社会へ送り出すという医療の場レベルではなく、地上で望みを失い過酷な状況に置かれている人々のいのちをわずか1日でもつなぎ、信仰に導き、永遠の国と永遠のいのちを得て永遠のやすらぎをプレゼントしてあげる、あるいは何も持たない貧しい手に最高の平安をお渡しする愛の奉仕の場でもあっのです。
祈りと愛の奉仕は一体なのでし。コロナの感染下のただなかで、あなたにできる精いっぱいの愛の奉仕はなんでしょうか。静かにやさしい想像力を働かせてみましょう。