**元気の出るダイアル**  2020年8月8日
 


愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締めだします。なぜなら恐れには刑罰が伴うからです。恐れる者の愛は全きものとなっていないのです。私たちは神を愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
(第一ヨハネ4:48-19)

1. 「神が」あなたをまず愛してくださった 

使徒ヨハネは「神があなたを愛してくださった」(10)と、神のイニシャティブをはっきりと伝えています。したがって私たちは神の愛を信仰によって「受けとる」ことが求められています。この世界は「GIVETEKE」の世界です。受ければかならずお返ししなければエチケット違反になりかねません。けれども神様は「GIVEGIVE」に徹してくださった恵みに満ちた愛の神です。

愛という漢字は「こころを受ける」と書きます。生まれながらのままでは神の国を受け継ぐことができない私たち、失われゆく、滅びゆく罪人の私たちのために、御子を十字架にかけて身代わりに死なせるほどまでして、赦しの道を用意してくださった神の深い愛とみこころを受けいれていくことです。神のみこころをあなたのど真ん中で信仰をもって、受けとめましょう。片隅においておくほど、価値の低いものではないのですから。あなたの人生の最大の宝なのですから。

2. 愛は恐れを取り除く

ここで使われている「恐れ」(フォボス)は、恐怖という意味です。人は様々な「恐れ」「恐怖」を抱きます。日常の生活の中の恐れもありさらには最後の審判を恐れる恐怖もあります。なぜなら、罪を抱えたまま生まれながらのまま、来るべき最後の審判を受けるとすれば、そこに待っているのは「刑罰」であることを感じ取っているからです。

神などいない、したがって天国も地獄もないと豪語しながらも、根底においてはどこかで終末の審判に対する「恐れ」を人は抱いています。臨終の場で、「悪かった、すまん」と謝り続けていた人がいました。人は罪を抱えたまま、恨まれたまま、憎まれたままでは死ねないのです。

しかし、なんと感謝なことでしょう。キリストを信じた者たちは、十字架の罪の赦しの中に導かれます。「御子イエスの血はすべての罪からきよめてくださる」(第1ヨハネ17)との約束通り、十字架の下でなお赦されない罪はひとつも存在しません。だから、審判の日にも神の前に安らかに立てるのです。キリストの完全な愛は、私たちから最後の審判の日における「罪の刑罰」に対する恐れから解放します。

私たちは恐れに代わって平安を得て、マタイ25:46で「永遠の刑罰と永遠のいのちの分岐点」(マタイ2546)に立つことができます。なんと幸いなことでしょう。

もっとも根源的な恐れから解放してくださったキリストとともに人生を歩むなら、日常生活のさまざまな心配事、煩い事、悩みや不安に対してもキリストにある平安を持つことができるのではないでしょうか。

イエス様は「この世では悩みがある。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている」( ヨハネ1633 )と約束してくださいました。私がキリストとともに歩むのではなく、キリストが私とともに歩んでくださっているのですから。 キリストの愛は、今もそして来るべき日にも恐れを取り除きます。そうです、完全な愛は恐れを取り除くのです。

表紙に戻る