**元気の出るダイアル** 2020年9月6日
私たちの願うことを神が聞いてくださると知れば、神に願ったそのことは、すでにかなえられたと知るのです。
(第一ヨハネ5:15)
祈りのない宗教はどこにも存在しないと言われています。どんな宗教にも祈りと祈りの作法と祈りの教えが存在しています。それは人間そのものが古来から自然界の脅威を前にしたときに無力さやいのちのはかなさを覚え、目に見えない神に助けを願い求めたからではないでしょうか。多くの場合、祈りは自分の幸福や益のために祈りますが、聖書はむしろ自分以外の他者の幸せのために祈る祈りを大切にしています。これを執り成しの祈りと呼びます。
人にとっての最高の幸福とは、地位名誉立身出世を得ることとはかぎりません。あるいは無病息災で安寧な人生を送ることともかぎりません。なぜなら私たちにとってこの地上での人生には限りがあり、永遠に続くものではないからです。すべてを永遠に握りしめることなどは誰にもできません。それらは「究極の幸福」とは言えないからです。
たとえ自分の人生に悔いはないと言い切れるほど充実した人生を送った人であったとしても、この世の人生を閉じることには未練が残り、愛する人たちとの別れには淋しさがともなうものです。それが生の人間のかざらないありのまますがたです。私もそれは同じです。
聖書はこの地上の生活だけがすべてではないことを教えています。宣教師パウロは生粋のユダヤ人であり、同時にローマ帝国の自由人としての市民権を持つ国際人でした。にもかかわらずパウロは「私の国籍は天にある」(ピリピ3:20)との自覚を深めていました。
地上に属するものは過ぎ去りますが、天に属するものは永遠に永らえるからです。だからパウロは宣教師としての人生を力いっぱい走りぬくことができました。他の人々の何十倍何百倍もの苦難や困難やいのちの危険のただなかを潜り抜けながらもです。
天に国籍を持つ者として生きているから、地上だけでなく天に希望をつなぎ、同じように天に国籍を持つことができる幸いな人生へ、一人でも多くの人々を招こうとの「愛と祈り」をもって宣教師としての生涯を全うしたのでした。
神様のみこころは、地上に生きる一人一人が、「一人も滅びないで永遠のいのちをもつこと」ですから、執り成しの祈りをささげ、一人の罪人が悔い改め、神に立ち帰り、神の国の新しい民の一人となり、神の国に国籍を持ち、神の国の完成のために新しい人生を歩みだすことは、まったく神の御心に叶うことです。
「主は、・・あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(2ペテロ3:9)
あなたの大切な人とともに天に国籍をもつ神の国の民となるように、天の神様に祈りましょう。神様はその祈りをきっとかなえてくださることでしょう。