**元気の出るダイアル**  2021年3月30日
 

受難週のメッセージ

「キリストは人としての性質を持って現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2:8)

今週はキリスト教の暦では、受難週です。受難週とはイエス様がエルサレムのカルバリの丘の十字架で死なれるまでの1週間を指します。そして次週4月4日はイエス様が死んで墓に葬られましたが約束通り3日目に復活されたことを記念するイースター礼拝を世界中の教会が喜びをもってささげます。宇治バプテスト教会では三密を避けるコロナ対策をしっかりとりながら教会堂での礼拝とオンラインでのイースター礼拝をささげます。この機会にぜひ、教会をお訪ねください。

さて、足跡をたどれば、イエス様の33年半のご生涯は、苦難と試練の連続でした。誰一人、望まないような家畜小屋の飼い葉おけの中で産声をあげ、カルバリの丘に立てられた十字架にかかり、全世界の人々を罪と死の力から救い出すために身代わりとなって死なれるまで、「人の子には枕するところがない」(ルカ9:58)と言われるほど、茨の道を、困難さの中を、そして誤解や非難や反発や中傷の中を歩まれました。イエス様にとって故郷であるナザレの村に帰った時も、幼い時からよく知っている年配の村人たちは、「この人は大工ヨセフのせがれじゃないか。どうして預言者が預言していたメシア、キリストであろうか」との偏見と不信仰から、村から追放され崖から投げ落とされそうになりました。

ユダヤの都エルサレムでは群衆から大歓迎されて迎えられたものの、わずか1週間足らずでイエス様に対する態度が豹変し「イエスを十字架につけろ」と叫び騒ぐありさまでした。大騒乱になりかねない群衆の怒りをしずめるためにローマの総督ピラトは意に反して、十字架の死罪判決を下さねばなりませんでした。

昔も今も、イエス様を救い主キリストと信じ、受け入れる人は少数です。確かに歴史上の人物ではあるが、単なる若き宗教的指導者、教師の一人ではないか、神でもなければ、神の子でもない、ましてや全世界の人々のために救い主キリストではありえないと考えています。しかし聖書は真理を教えています。

「この方を受け入れた人々、すなわちおの名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハネ112)と。そして宣教師となったパウロは世界中の人々に向かって、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。」(1コリン1:18)と、十字架につけられたキリストを宣べ伝えたのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かであっても。

世界中の教会がこの1年間は新型コロナウィルスに悩まされ、試練の中を歩みました。日本で8989名、世界で277万人が亡くなっています(3/26現在)。

世界中の諸教会は今、同時にかつ同じ苦しみを共有しています。これは今までにない経験と言えます。同じ痛みを、悲しみを、恐れを分かち合っています。ある意味、私たちは苦しみを通して世界中の教会と「連帯」していると言えます。その意味でまさに、受難週にふさわしい日々と言えます。

受難の後に栄光の復活があるように、この苦難の先にも神の恵みの光が輝くようにお祈りいたしましょう。

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