「バプテスマのヨハネが荒野に現れ、罪の赦しに導く悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた」(マルコ1:4)
マルコ福音書にはキリストの誕生の出来事については記されていません。かわりにバプテスマのヨハネが荒野に現れて「悔い改めのバプテスマ」を説いた出来事から書き記しています。
1. バプテスマのヨハネ
彼は「らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べる」(6)という独特のいでたちで民衆の前に登場しました。その姿は旧約時代の偉大な預言者エリヤを思い起こさせました(2列王1:8)。預言者エリヤの時代、イスラエルでは、アハズ王の后となったシドン人イザベルによって異教の神々が国内にもちこまれ、各地にバアルの神殿が建てられ、アシュラの像が祭られ、イスラエルの神、主が忘れ去れるという不信仰な時代でした。預言者エリヤは「悔い改めて神に立ち返る」ようにと荒野で叫び続け、バアルの預言者たち850人を相手にたった一人で果敢に挑み、打ち負かし、信仰の「原点に立ち戻る」宗教改革を断行した人物でした。
ローマ帝国による軍事的支配が強まり、民衆が政治的にも経済的にも抑圧され、神への信仰が次第に薄れていく激動の時代のさなかに、最後の預言者と呼ばれるバプテスマのヨハネが登場し、信仰の原点に立ち返るように民衆に迫ったのでした。ヨハネの登場は、旧約聖書イザヤ書40:3、マラキ3:1 で預言されていた出来事であり、「救い主が来られる、その前に一人の使者が遣わされるから、救い主を受け入れる備えをせよ」という、神様からのメッセージでした。
旧約聖書の最後の預言者マラキから300年間の沈黙を破って、再び神様はイスラエルのために預言者を送り、神への信仰に立ち帰るようにと招いてくださったのです。神の愛は不変です。神の召しと賜物は決して変わることはありません。少々の信仰のブランクは神の前には川岸の朝の霧のようなものにすぎません。朝霧が必ず晴れてゆくように、神様は不信仰の霧を追いやり、光の中に呼び覚ましてくださるのです。私たちが神様を忘れるようなことがあっても神様が私たちをお忘れになることは決してありません。
「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。」(イザヤ49:16)とまで、永遠の愛をもって私たちの名を覚えておられるお方だからです。
2. 民衆はヨルダン川でバプテスマを受けた
ユダヤの国では、祭司たちが神殿で奉仕をする際に、水で体を洗いました。死体など、汚れにふれたときにも身体を洗って清める儀式が行われました。日本でも神社仏閣の境内に入る時、水で手を洗ったり、口をすすいだり、滝に打たれて身を清めるというような「みそぎの儀式」が行われます。葬式から帰ると、家の前で汚れを払うために、「清めの塩」がまかれる風習が今も残っているようです。ヨハネはヨルダン川に「全身」を沈めるというバプテスマを施しました。汚れを清めるためには、何度も水浴しなければなりませんでしたが、ヨハネの行ったバプテスマは1度限りのものでした。その意味において、非常に特徴的なバプテスマでした。
さて、一つ心に覚えましょう。ヨハネはヨルダン川で全身を水に沈めれば、罪が赦されると教えたわけではありません。ヨルダン川にそんな不思議な力があるわけではありません。私たちの罪の赦し、全人類の罪の赦しはキリストの十字架の死によってのみ成し遂げられました。神殿で何度も動物の犠牲をささげ罪の赦しを願っても、何度も清めの水で身体を洗っても、罪の赦しは成し遂げられません。罪、咎、汚れは高級石鹸で洗おうとも落としきれません。カルバリの丘の十字架の上で流された神の御子の尊い血潮のみが、すべての罪から私たちを清めるのです。
ヨハネは「悔い改めのバプテスマ」を授けました。悔い改めという言葉は、「方向転換をして神に立ち返る」という意味をもっています。もろもろの罪や悪事の懺悔、反省、告白という以上に、根本的な方向転換を意味します。神様を抜きにした自己中心的な生き方から、神様とともに歩む人生を歩みだすことを意味しています。この経験は本質的には1度限りの経験です。神様がおられる、その神様を無視しては生きられないと、生まれて初めて「神の存在を認め、受け入れた」瞬間ですから、考えればすごいことです。未知の世界に一歩踏み出した人生最大のターニングポイントです。ですからもう引き返せません。この世の人は「何かの宗教を信じるのはいいけど、宗教に深入りせず、はまりこまないように、抜け出せなくなるから」と警告します。でもそうではありません。言葉に言い尽くせない神の恵みの深みへと導かれるのですから、もう引き返せるはずがありませんね。「あなたがたが切り出された岩、掘り出された穴を思い出せ」(イザヤ51:1)と聖書は語ります。神を信じ、キリストを信じるまでの自分の生活、その罪深さ、愚かさ、心のむなしさを覚えれば、今がどれほど幸いであるかとしみじみ思うのではないでしょうか。
昨日は、ライフ・ラインの京都南地区のクリスマスの集いが開かれました。原田牧師の心温まるメッセージと共にサックス奏者の安武玄晃(もとあき)さんの演奏に感動しました。喘息の病の治療のため管楽器を吹き始め、吹奏楽部でサックスと出会いました。高校卒業後が仲買業者に就職し、羽振りの良い生活、全身をブラン品で着飾って福岡の中州の繁華街を飲み歩く生活を送っていました。でも一人になると虚しさが襲ってきた。そんな中で友人に誘われて教会に行き、救い主キリストと出会ったそうです。最初は「こんな自分でも教会に行って良いのか」と思ったそうですが、教会で再びサックスの演奏をして神を賛美している間に、神様からの賜物をもっと学ぼうとアメリカに留学する決心へ導かれたそうです。かつてはこの世的なブランド品で全身を飾り立てる生活でしたが、今はすべてがイエス様の恵みで包まれたキリストブランドだそうです。
ヨハネがヨルダン川で授けたバプテスマは、何度も何度も繰り返す必要のある「清めの儀式」ではなく、神様を抜きにした人生に終止符を打ち、神と共に生きる道を歩み始める「悔い改めの」バプテスマでした。それは人生で一度かぎりのバプテスマでした。この方向転換という第一歩を踏み出した人々は、キリストの十字架の死の中に、流された神の御子の血潮の中に、完全な罪の赦しを見出す恵みへと導かれるのです。
それゆえ、教会では神とキリストを信じて新しい人生を歩み始めることを願う者たちに、キリストの名によるバプテスマを授けるのです。人生で1度限りのバプテスマですが、信じる者には「永遠のいのちにいたる」祝福に生涯招かれるのです。
「キリストはただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を除くために来られたの
やがて神の御子救い主キリストが民衆の前に姿を現し、