「主よ、いまこそあなたはあなたのしもべをみことば通り安らかに去らせて去らせてくださいます」(ルカ2:29)
いよいよ来週はクリスマス礼拝です。喜びつつ迎えましょう。
1. イエスの命名
ベツレヘムの家畜小屋の飼い葉おけの中で産声をあげた神の御子は、8日後に律法に従いユダヤ人としての印である割礼を受け、「イエス」と命名されました。通常は父親が子供の名前を決める特権を持っていますが、み使いがヨセフに「その名はイエスと名付けなさい」(マタイ1:21)と告げられた通り、人間的な権利を明け渡してヨセフは「イエス」と命名しました。イエスの名がこうして人類の歴史の中に永遠に刻まれたのです。イエスの名によって、癒しと罪の赦しと救いがもたらされました。
地上でささげる祈りは、イエスの名によって全てが、父なる神のもとに届けられます。
2-3人が集い、イエスの名によって祈るところに、「私もそこに共にいる」(マタイ18:20)と約束してくださり、イエスの恵みが満ち溢れ、人知を超えたイエスの御業が実を結んでいきます。
世の中には多くの神々の名が存在し、数々の救世主・救い主の名が自己宣伝される中、神の御子イエスの名を呼ぶことができる人はなんと幸いなことでしょう。イエスの名をいまだ知らない圧倒的に多くの人々がいるただ中で、私たちは「神の御子の名はイエス」、「救い主の聖なる名はイエス」と、心から賛美を捧げることができることはなんと幸いなことでしょうか。
2. 神殿にて
さて ヨセフとマリアは、男の子を出産した場合には40日と定められている「きよめの期間」を終え、犠牲の供え物を携え、初子の男子を神に捧げるために、エルサレム神殿に上りました。
そして、そこで御霊に生かされ御霊に導かれ、敬虔な信仰の歩みをしている2人の人物と出会いました。 シメオンとアンナです。この日、シメオンは聖霊に導かれて神殿に上ってきました。一方、アンナは断食と祈りをもって、神殿を離れずに神に仕えていた女預言者でした。神殿の中でヨセフと母マリアに抱かれた幼子イエスとシメオンとアンナの5人が出会ったのです。
私たちも人生で 様々な出会いを経験していきます。一瞬で別れてしまう出会いもあれば、生涯の友として仲間として家族同然に友情と交わりを深めていく出会いもあります。そうした出会いは神によって、神の御霊によって与えられる永遠の出会いと言えます。出会いを大切にしていくことは、出会わせてくださった神を尊ぶことにそのまま通じます。
3. 高齢になるまで信仰に生きる
シメオンとアンナには共通していることが2つあります。
1つ目は、
彼らがともに高齢者、老人であることです。特にアンナはその年齢が84歳と明記されています。シメオンに関しては詳細が記されていませんが、救い主イエスと出会った時 「これで私は安らかに世を去ることができます」(28)、もう思い残すことはありませんと語ったところから、当然、高齢者であったと判断できます。彼らは高齢になるまで神を信じる信仰に生きていました。
彼らが生きていた時代はローマ帝国が強烈な圧倒的軍事力、武力を持ってユダヤの国を支配していた暗黒の時代そして激動の時代でした。 さらにアンナは、たった7年間だけの結婚生活を、それも夫の死によって突然断ち切られるという人生の深い悲しみを背負った人でした。多くの苦難と試練の中で、にもかかわらず信仰を全うするということはどれほど尊いことでしょう。きっと祈りが彼らの忍耐を支えたのでしょう。
4. メシアを待ち望む
彼らに共通している第2番目の出来事は、「救い主メシアが来られることを信じ、待ち望んでいた」ことです。シメオンは「イスラエルが慰められる」(ことを待ち望んでいました。イスラエルの慰めとは、
やがて約束されたメシア・キリストが来られることを意味する言葉です。 またアンナも「イスラエルが贖われること」を、待ち望んでいる人々の中の一人でした。むしろ彼らのリーダー的そんざいであった可能性もあります。シメオンとアンナに共通していることは、晩年になるまで変わらずに1つの祈りと願いと希望を持ち続けていたことです。救い主がやがて来られる日を待ち望んでいたことです。
蓮見和夫先生は著書の中で「私たちはキリスト者であっても、いつも期待よりも諦めが多く、ただ願いながら確信していないことが多いのではないでしょうか」と問いかけています(p43)。 シメオンのように、アンナのように、期待しつつ待ち望み続けるものに、神様は最大の贈り物を届けてくださいます。安易にあきらめてしまいやすい私たちではないでしょうか。あきらめることは簡単ですが、待ち望むことには信仰と忍耐が試されます。
5. シメオンが見た救い
シメオンは「私の目であなたの救いを見ました。この救いは全ての民の前に用意してくださったもの、 これこそ異邦人を照らす啓示の光、あなたの御国の民、イスラエルの栄光です」(29-32)と、神を賛美しています。「全ての民」という表現は全イスラエル民族を指す言葉と言われています。のみならず、救い主はまさに全世界の救い主であり、「異邦人を照らす光」と記されています。
さらにユダヤ人であれ異邦人であれ、すべての国民がキリストにあって一つとされて「新しい神のの民、イスラエル」と呼ばれます。終末において誕生する神の栄光に輝く公同の教会の誕生がここでは語られていると言われています。
このように、イエスは全世界の諸国民、全ての人々にとっての真の唯一の救い主となられたお方です。
彼は十字架で死なれ、人類の罪、咎、穢れをその身に負い、自らの死をもって罪を償い、刑罰を帳消しにされました。ですから、御子の十字架の赦しが適用されない人などはこの世に1人も存在しません。「御子イエスの血、すべての罪より我らをきよむ」(1ヨハネ1:7)のです。
旧約聖書においても東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される」(詩篇103:12)と神は宣言しておられます。カルバリの丘の十字架の御子の死を通して、神は赦しを宣言してくださっているのです。
永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされた
これは救いの真理です。信じる者には、永遠の命の喜びと希望が輝き、イエスを拒む者には希望も光もない滅びの暗闇が待っているのです。キリストの誕生を境に、世界の歴史が
紀元前と紀元後に大きく二分されたように、キリストを受け入れるかキリストを拒むか、永遠の運命はあなたに託されていると聖書は問いかけています。
もし、人生最大の選択があるとするなら、それは神の御子イエスキリストをあなたの救い主として受け入れることではないでしょうか。