【福音宣教】  力ではなく愛による宣教

多くの人を癒されたので、人々はイエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来た」(マルコ3:10)


イエス様はユダヤ今日の礼拝の場所である会堂を離れ、ガリラヤ湖の青空の下で神の国のメッセージを語られ始めました。パリサイ人や律法学者たちとの間に対立が深まり、イエス様の暗殺計画まで協議されるようになったためです。ところがガリラヤ湖畔の広い場所になると、ますます多くのイ群衆が押し寄せてきました。地元のガリラヤばかりでなく160㎞も離れたエルサレムからも、ヨルダン川の東のデカポリス、南の国境沿いのイドマヤ、地中海沿岸のツロからもやってきました。ユダヤ ばかりでなく 諸外国からもやってきたことがわかる。ガリラヤ地方の片隅で蒔かれた、一粒のからし種だねのように、イエス様を中心とするわずか12人の小さな群れでしたが、やがて地の果てにまで(使18)広がっていく力を秘めていることを暗示するような出来事でした。

今日は母の日です。母の日はアメリカの小さな教会から始まり、全米中にそして全世界に広がりました。亡き母の追悼会の日、母を偲んで出席者に母の好きだった白いカーネーションを手渡したことが始まりでした。母への感謝の思いは、国境や民族の違いを超えて全人類共通の「愛」の原点でもあり受け入れられたのです。特にアンナ・ジャービスさんが慕ってやまなかった母のアンさんは牧師夫人でもあり、南北戦争のときには、敵味方の区別なく傷ついた兵士たちの看護に献身的に働きました。アン夫人自身も10人の兄弟の内、8人まで戦争や病気で失うという悲しみを背負っていました。だからこそ「平和を希求する願い」は誰よりも強かったといわれています。平和を願い、命をはぐくむ、これが本来の母の日の在り方だったのです。心に憶えたいものですね。

1.     押し寄せる群衆

病気に悩む人たちが皆イエスに触れようとして、そばに押し寄せてきました(310)。

イエス様は、ご自身の力と権威を、病める人々に対する「癒し」として示されました。イエス様は憐れみ深い慰め主、癒し主であられます。4つの福音書の中で、マルコの福音書はイエス様が「神の子」であることを中心主題として伝えています。マルコ福音書は「神の子イエスキリスト福音のはじめ」(11)の言葉から始まります。そして15章では、イエス様の十字架の死を執行し、最後の姿を目撃したローマの百人隊長が、異邦人でありながら「まことにこの人は神の子であった」(1539)と、カルバリの丘の十字架の下で告白したことを記しています。つまり、イエス様が神の子であり、神の御国に招くことができる唯一のお方であることが強調されているのです。

ユダヤの一般民衆が期待するメシア・キリストのイメージは、軍事的武力や暴力でローマ帝国の支配を打ち砕く勇猛果敢な勇ましい王の姿でした。ユダヤの国にかつてのダビデ王やソロモン王が築き上げたような輝かしい繁栄と栄光をもたらす力と権威を持つ王でした。ですから、十字架にはりつけにされ、殺されていくようなメシアなど全く考えられませんでした。だから律法の専門家たちも、多くの群衆も、「十字架につまずいた」のでした。わずかな者だけが「十字架のキリスト」を信じ、十字架の中に赦しと救いを見出し、信頼したのでした。

イエス様は「癒しの御手」を病める人々の上に置かれました。

癒す「セラピュオ」という言葉には、「治癒する」という意味もありますが、 医学的な「治療」( 英語でヒール、キュア) を意味する言葉とは異なり、むしろ「仕える、世話をする」(英語でケアやサーブ)を意味することばです。病気を支配する医学的知識や専門技術よりも、病める者に対する特別な関心と病者の苦しみに対する特別な配慮、をもって、看病したり看護したり介護する「奉仕」の方に重点が置かれていることばです。

最近は多くの病院でも「緩和ケア」を中心に行う「緩和病棟」が併設されるようになりました。末期のがん患者さんを看取る専門的なホスピスほど手厚くはないものの、延命を目的とする治療よりも、残された日々をその人らしく「生活の質」(QOL)を保ち、穏やかに家族とともに過ごしてもらうことを目的とする緩和ケアが設けられています。最近も緩和ケア病棟に入院している一人のお年寄りを訪ねましたが、持参した好物のいちごショートケーキをおいしそうに少しだけ口に運んでくださっていました。お医者さんや看護師さんからも許可が出ているとのことです。

イエス様が「癒し主」であることは、ただ単に肉体の「治療」で終わるのではなく、病気に倒れた人の心の苦悩や孤独や不安や恐れに寄り添い、神の平安の中に憩わせる「こころのケア」、さらには最も大切な「魂の救い」へと導かれる、一連のプロセスを導かれることを示しています。病気という一面だけを切り取って癒されたとしても、それは救いにはならないからです。永遠の命にまで至る「全人的な救い」へと罪びとを招いてくださるお方です。                「わたしは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くために来たのです」(マルコ2:17)。

2.     小舟を出させたイエス様

さて、イエス様はガリラヤ湖畔を埋め尽くすほどの群衆を前に、弟子たちに小舟を出すように命じました。押し寄せる群衆から一定の距離を取られました。群衆の目的は「イエス様に触る」ことでした。有名人がくるとファンが殺到してなんとかからだに触ろうとします。握手会などあれば両手で握りしめる人もいるようです。「もう一週間は手も洗えない、お風呂にも入れない」と興奮冷めやらぬ熱狂的なファンもいます。神社仏閣の霊験あらたかと呼ばれるお地蔵さんの頭も撫でられ、とうとう禿げてしまっているそうです。「触ることでその人から力をもらう」という世俗的な迷信、大衆心理が働くのかもしれません。聖書の中には、群衆のためイエス様に近づくことができず、せめてイエス様の衣の裾にでも触れば癒されると信じた長血の女性の出来事(マルコ5章)が記されています。イエス様は彼女を後ろから、そっと人知れずではなく、正面に向き合わせ、信仰の告白へと導かれました。

イエス様は小舟を出させて、あえてこのような群衆の熱狂と期待から距離を取りました。もちろん、イエス様は病める人々に対するいたわりや共感共苦の心は、誰よりも深く、それゆえイエス様から見放されたり見捨てられたりする人は一人いませんでした。しかしながら、イエス様がこの世界に来られた目的は、一人一人の魂を滅びから救うためであり、十字架への道を歩まれました。

救われるために必要なことは、何よりもまず、神の言葉を聞くことから始まります。奇跡を追い求めるのではなく、主イエスを通して語られる神の言葉を聞くことを求めなければなりません。奇跡を求めるだけの群衆は、やがて十字架につまずくことになり、イエス様のもとから離れ去っていきました。しかしイエス様が語る神の国の福音は、罪びとを悔い改めへ導き、十字架の贖いを信じる信仰へと導き、復活のいのちを信じてゆるがない希望を抱いて、神のしもべとして地上の人生を生きるという新しい人生へと一人一人を導くことができるのです。

イエス様は癒しの御業を中心とした宣教から、いよいよ神の言葉を語り伝える宣教へと本来の目的に向かって歩み始めました。小舟を出させたイエス様は、見て触る信仰から、聞いて信じる信仰へと群衆の中の一人一人を船出させたといってもよいでしょう。
イエス様は、悪霊が「あなたこそ神の子です」と叫ぶことを沈黙させました(513)が、神の国の福音を聞いて信じたあなたが、「イエス様、あなたこそ神の子です」と信仰を告白し、キリストに従い、神の恵みを声高くほめたたえることを願っておられるのです。

あなたが群衆の中の一人ではなく、神の子の前に立つ一人でありますように。