
「灯りを持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではないでしょうか」(マルコ4:21)
今日は父の日です。父の日はアメリカで、1909年にソノラ・ドッドさんが、南北戦争後の混乱期に、病死した母のあと、男手一つで6人の兄妹を育ててくれた自分の父親に感謝するために、牧師協会に嘆願したことが始まりです。最初は1910年6月19日にワシントン州スポケーンで祝われ、その後、アメリカ全土に広まりました。1972年に正式な国民の祝日として制定されました。アメリカでは父の日に、バラの花を贈るそうです。日本でもいつしか父の日には黄色のバラやひまわりの花を贈る習慣が広がっています。黄色のばらの花言葉は「尊敬」だそうです。
先週、私たちは、4つの畑に落ちた種のたとえ話を学びました。蒔かれた種は「神の言葉」(14)であり、「神の国の奥義」(11)であり、種を播く人は、神が遣わされた主イエスキリストであると学びました。今週の聖書箇所で、イエス様は「灯り」と「升」のたとえ話を加えてさらに補足説明をされています。ユダヤの国では、芯をオリーブ油に浸した小さな「灯り」を点し、床に立てた鉄製の燭台の上において部屋を照らしたそうです。「升」は穀物を量る台所用品ですが、灯りを消すときに煙が立たないように上からかぶせたそうです。ですから灯りをともして部屋を照らすときに、低い寝台の下に置いてわざわざ隠したり、ましてや升の下において消してしまうことはありえませんでした。つまり、掲げた灯りを照らし続けることが強調されているのです。
1. みことばの光
主イエス様が語られた「み言葉の種」は道端、岩地、茨の地に落ちて一見、無駄になってしまうように見えることもあるかもしれませんが、30倍60倍いいえ100倍もの実を必ず結ぶという祝福に満ちた成長力を持っています。神のことばは「決して無駄にならず・・」(イザヤ55:11)、「涙をもって種を播く者は喜びをもって刈り取る」(詩篇126:5-6)。種まきには実り豊かな刈り入れ・ハーベストタイムが約束されています。そのように「みことば」は「世の光として」闇の世と暗く打ち沈んだ傷ついたこころを癒し、希望の光を輝かせることができます。だから光を消さないで、高く掲げようというメッセージになっているのです。
「こころのともしび」というカトリックのラジオ放送のエンディングは「暗いと不平を言うよりも、すすんであかりをつけましょう」で締めくくられています。女優の河内桃子さんが34年間も朗読を続けられました。羽鳥明先生は1951年から太平洋放送局、「世の光」のラジオ牧師として57年間、福音を語り続けてこられました。空しく暗い人生を生きていたダンプの運転手がこの福音を聞いて救われ牧師になられました。そして今度はご自分がこの番組で福音を語っておられます。主イエスキリストは、いのちの言葉を語り、人生の闇に光をともしてくださる救い主なのです。 「私は世の光です。私に従う者は決して闇の中を歩むことがなくいのちの光を持つのです」(ヨハネ8:12)。
2 神の御国の希望の光
22節で「覆い隠されているものは必ず明らかになる」と主イエスは語っています。この句は「隠し事や嘘や罪は、いつか発覚して裁きを受ける」というユダヤの格言と言われています。ところがマルコ福音書では違う意味で用いられています。「神の国の奥義」は今、隠されていますが、やがて明らかになり、それは全世界を照らす希望と喜びの知らせになるという意味で用いられています。神の国はキリストの誕生と宣教によってすでにこの世界に到来しました。主イエスの権威と力によって、人々を罪と死と様々な苦しみの中に束縛していた悪霊の力が打ち破られました。主イエスの十字架の死と復活によって、いよいよ神のご支配は決定的となり、人類の最大の敵であるサタンの持つ死の力はその毒針を抜き取られ、サタンはすでに決定的な敗北を期しました。そしてついにキリストが再びおいでになる再臨の日、万物は神の愛と義が支配する完成の時を迎えます。終末に向かって神の御国はこうしてその栄光の姿を明確にあらわしていきます。全人類に対する神の救いのご計画は徐々に歴史を通して明らかになっていきます。人類の歴史は「神の物語」(His story)、失われ滅びゆく世界が回復し完成していく、神の救いの物語なのです。神の国は「奥義」つまり多くの人々にはまだ隠され覆われています。天国という言葉は仏教世界でも使われるようになり、死んだら行く世界・あの世という言葉と同義語担ってきました。キリスト教会は天国ではなく「神の国」を用います。神の国はキリストの到来とともにすでにこの世界に突入してきました。そして全貌が明らかになる完成の時を待っています。多くの人々にはまだまだ隠されていますが、主イエスを信じる者は、神の御国の希望の光に照らされ、完成の日を待ち望んでいるので。ここに私たちと教会の希望が輝いているのです。
2. みことばの聞き方
24節でイエス様は「人を量るその量りで自分も量られる」とも語っています。この言葉は、「安易に人を裁いてはならない。同じ基準で自分も裁かれるのだから」という当時の格言ですが、これもマルコ福音書では違う意味で用いられています。イエス様が語られた「神の言葉」あるいは「御国の奥義」をどのような態度で聞いて受けとめているか、その聞き方そのものよって、「豊かにもにも、貧しくにもなる」とイエス様は弟子たちに語られたのです。25節の「持っているものはさらに与えられ持たないものは持ってるものまで取り上げられる」とは、当時の富める者と貧しい者との社会的な不平等、富の偏り、搾取される側の構造的な痛み、貧しい者に対する経済的な暴力を指摘する格言です。しかしここでは違う意味で用いられています。神の言葉をしっかりと聞き、こころに豊かに蓄える者は、ますます霊的に魂が豊かになり、神の恵みを感謝するようになるが、神の言葉を聞き流し、蓄えることを怠る者は、魂がますます貧しくなることを言い表しています。
皆さんはきっと銀行の貯金通帳をもっており、時折開いて収支を確認されますね。魂にも「こころの貯金通帳」があります。み言葉の「積み立て」が豊かな人はますます豊かになり、「積立額」が乏しい人は、ますます目減りして貧しくなることを言い表しています。若いころある牧師が「みことばのシャワーをいつも浴びなさい」と指導してくださったことがありました。新しく霊的に誕生したクリスチャンはみことばを必要としています。肉体はバランスの取れた良い栄養を必要としています。精神は素敵な音楽や芸術を必要としています。そして魂はいのちのことばを必要としているのです。私は説教の準備のために結構、多くの神学書や注解書を読みます。ある時に気が付きました。本当に必要なのは、聖書そのものをじっくり読むことじゃないかなと。新しく新改訳聖書2017版に切り替えた機会に、通読を再開しました。不思議ですね、新しくみ言葉の出会いを経験します。良く知っている聖句でもまた違った輝きを放ち、違った味わい深さをもたらしてくれます。聖書通読はやはり聖書の学びの原点と言えるのではないでしょうか。
パウロは「信仰は聞くことであり、聞くことはキリストの言葉からくる」(ロマ10:17)と、キリスト教信仰の本質を語りました。私たちの信仰は見る宗教でも、感覚・感情重視の宗教でもなく、聞く宗教です。神のことばを聞く、聞き続ける宗教です。「これは私の愛する子、これに聞け」(マルコ9:7)と、弟子たちが父なる神様から聞かされたように、キリストのことばを聞き続ける信仰に生きる者です。
あなたは人生で迷ったとき、誰のもとに行って助言を求めますか。誰からアドバイスを受けようとしますか。街角の占い師? 毎朝テレビで流れる今日の占い? 人間のことばほど頼りないものはありません。人間のこころほど移り変わるものはありません。コロコロ変わるからこころというそうです。聖書は、永遠なる神の言葉をあなたの道の光とせよと教えています。
「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)
