
「そしてその子供の手を取って、タリタ・クミと言われた。訳していえば、少女よ、起きなさいという意味である」(マルコ5:41)
1. 会堂司ヤイロの懇願
異邦人の地、ゲラサ地方、かつてはギリシャの植民地であったデカポリス地域から再び主イエスと弟子たちはガリラヤ湖を渡って、ベッサイダに戻ってきました。岸辺には相変わらず群衆がひしめきあっていました。その中で、群衆もよく知っている会堂司のヤイロが、イエス様の前にひれ伏して懇願したのです。「娘が死にかかっています、手をおいて祈って救ってください」と。すぐにイエスはヤイロの家に向かおうとしましたが、その途中で12年間も長血(婦人病)で苦しんでいる女性をイエス様が癒されるという出来事があり、時間をとってしまったのです。急いでいるときにかぎってほかの急ぎの用事が入りこんでしまい、パニックになることがしばしばあります。ヤイロはイエス様に一刻も早く来てほしかったでしょうから、内心、いらいらしていたことでしょう。もし腕時計があったなら、これ見よがしに何度もうで時計を見たことでしょう。
さて、会堂司とは、ユダヤ教の集会所である会堂シュナゴーグの代表責任者。当然ながら聖書にも精通し、人々からも尊敬されている重要な人物です。イエス様はすでに会堂から敵視されていましたが、ヤイロはイエス様の語る神の御国の説教には強い関心を持っていたようです。強い関心と信仰との間にはまだギャップがありました。ヤイロという名前は「神が目覚めさせる」という意味がありますが、思わぬ形で、彼がキリストへの信仰を目覚めさせられる時が来ました。
1) その時は、ヤイロにとっては最悪のかたちでやってきました。ヤイロの家から使いのものが来て、「お嬢様がなくなりました。イエス様に来ていただき癒していただく必要はありません」と知らせたのでした。もはや手遅れ、万事休止。救急車が到着したが、心臓がとまってしまい、間に合わなかったようなものです。ヤイロは大いに失望したことでしょう。娘のために父親として精一杯のことはしましたが、そこには限界がありました。人が失望するところから、人が自分の力の限界を覚えるところから、神の御業が始まり、御国の福音が響くのです。信仰の目覚めはキリストのことばを聞くkぉとから始まります。
2) 主イエスはヤイロに向かって「恐れないで、ただ信じていなさい」(36)と命じました。 DON’T BE AFRAID ONLY BELIEVE 現在形命令ですから、最悪の事態の中であってもそれでも、「なお信じ続ける」これが信仰です。落ち込もうと、つぶやこうと、不満をもらそうと、それでもいいのです。「それでも私は信じる」と告白することが信仰の極みではないでしょうか。よくなること事態を信じるのでなく、神ご自身を「信じる」のです。
2. 眠っているヤイロの娘
主イエスはヤイロの家に到着しました。ヤイロの娘は「小さな娘」(23)と呼ばれ、42節では「12歳になっていた」とあります。ユダヤの国では12歳と1日経てば、少女から成人した大人の女性とみなされ、12歳から結婚するケースもあるそうです(バークレー)。成人式を迎えた娘のお祝いの時が、葬儀という悲しみの時となってしまったのですから、家族の悲しみが深さが伝わってきます。雇われた「泣き女」と呼ばれる女性たちが大声で泣き叫び、葬儀の準備があわただしく進む中、イエス様はヤイロの娘を見て「彼女はただ眠っているだけだ」といいました。息を引き取った様子を見ていた周囲の人々は、イエス様を「嘲笑った」とあります。眠っているだけ? そんな馬鹿な。そんなことはあり得ないことだと誰もが思いました。
日本でも死んだ人を「永眠者」と婉曲に表現します。本来、眠るとは「やがて目覚める時が来る」ことを前提としています。そうでなければ、安心して眠ることなど怖くてできません。ヤイロは完全に打ち砕かれていました。会堂司として多くの人々の死を世話したり、看取ったことがあるでしょう。死について語れと言えば、彼は旧約聖書から説教もできたでしょう。「終わりの日によみがえることは知っています」(ヨハネ11:21)と、弟ラザロがなくなったとき、姉のマルタも知識はもっていました。しかし、今ここで、主イエスが死者をよみがえらせるなどとは想像すらできませんでした。ですからイエス様は「信じるならば神の栄光を見る」と念を押されました。他人の死については冷静に語ることができ、いっぱしの説教を語ることができても、こと自分の愛娘のリアルな死に際しては、取り乱し、打ちひしがれるしかない。それが現実です。他人の死は見ることも語ることもできるが、愛する者の死に直面するとき、人は言葉を失うものです。父親の愛情も死の前にはまったく無力であること、富の力も、財産も死をとどめることはできない現実を前に嘆くしかなかったのです。
「恐れるな、信じよ」と語られたイエス様が、今、「娘は眠ってるのだ」と語り掛けてくださっている。ヤイロはそこに「光」を見出したのではないでしょうか。彼が、単なるご利益信仰から、キリストを信じる信仰へ、神の国の福音を信じる信仰へと目覚めるときが来ているのです。
3 タリタ・クミ
主イエスは娘の手を取り、タリタ・クミ 翻訳すると「あなたに言う、起きなさい」と、眠りから目覚めるように呼びかけました。イエス様たちが語っていた普段のことばはアラム語でした。すると彼女はよみがえって、歩き出しました。病気でやせ細っていたのでしょう。イエス様は「食事を用意してあげなさい」と彼女のこれからの健康と生活をも祝福されました。居合わせたペテロは衝撃を受け、その感動をそのまま、ペテロの通訳者であったマルコに伝えたと言われています。特別な瞬間には、みなさんもきっと方言が飛び出すことでしょう。
今日、イエス様が語られた3つの言葉を学びました。死は例外なく私たちの周囲にも、私自身にも及びます。死は時を選びません。そしていつ直面するか誰にもわかりません。しかしその時こそ、イエス様のことばを思い起こし、目覚めましょう。「恐れるな、ただ信じ続けなさい」「死んだのではない、眠っているのです」「タリタ・クミ」。マルコは主イエスのなさった4つの奇跡のクライマックスとして「ヤイロの娘のよみがえり」を記しています。この順番にも意味があります。
キリストの救いとは、十字架による罪の赦しと復活による永遠のいのちが中心です。なによりもキリストの復活という光の中で、信じる者は自分の死も、愛する者たちの死をも観ることができるのです。そして単なる絵空事ではなく、リアリティをもって死のかなたの希望を語ることができるのです。遠いいつの日かによみがえるのではなく、「今日、あなたは私と一緒にパラダイスにいる」(ルカ23:43)と十字架の死刑囚に語られたいのちの言葉、御国の約束のことばを、リアリティをもって信じることができるのです。キリストの復活の光の中で、「死」を見ることができるからです。
私の母は、54歳でがんで入院し、手術を受けることもなく、4日でなくなりました。病床で、最後に、イエス様を信じると告白し、私の腕の中で息を引き取りました。その様子を見ていた妹が、「兄ちゃん、ほんとうに天国ってあるの?」とポツリと聞いてきました。私は確信を持って静かに応えることができました。眠りについた母さんに「あなたは今日、パラダイスにいる」と約束されたイエス様は、「さあ、目覚めなさい」と眠りから呼び覚ましてくださるのだと
会堂司であったヤイロは、世間体も外聞も恥も捨てて、主イエスの前にひれ伏しました。そして信仰によって、12歳の娘のいのちを取り戻すことができました。主イエスご自身が「死の力」を打ち砕いて「復活された」お方だからであり、復活によって、死のかなたに闇ではなく、いのちと光が輝いていることを明らかにされたからです。
主イエスは今日も私たちに呼びかけています。「恐れるな。ただ信じなさい」と。
