
「旅のためには、杖一本のほかには何も持って行ってはいけません」(マルコ6:8)
主イエスは故郷ナザレでの伝道を終え、12人の弟子たちを手始めにガリラヤ地方全域に遣わされました。7節で、「彼らを身元に呼び集め、ふたりづつ遣わした」とあります。「招きと派遣」は教会の呼吸であると言われています。呼吸がとまれば死んでしまうように、教会も「イエス様のもとに招かれ、呼び集められ、イエス様のもとから遣わされ派遣されていく」ことがなければ、教会としての躍動する命を失ってしまいます。イエス様は彼らを町々村々に派遣するにあたって、杖と草履以外は何も持たせませんでした。なんの計画も立てず、知り合いや友人を訪ねるのでもなく、神にすべてをゆだねて神の導きだけを信じて、御国の福音を宣教しなさいと送り出したのです。
私たちの教会から献身した兄弟が、熱心な宣教団体で奉仕していました。伝道実習のプログラムの中に、文字通りまったく無一文で、聖書とトラクトだけをもって遣わされるという厳しい訓練があったそうです。マイクロバスに乗せられ、知らない街で降ろされ、後は神の導きだけで2日間の伝道実践をするそうです。野宿覚悟の学生たちでしたが、一人一人が不思議な出会いを経験したり、恵まれて、無事元気に伝道旅行から帰ってくるそうです。神様は生きておられるという貴重な体験をすることができたと喜んで証しをしたそうです。
1. 二人ずつ1組になって
まずイエス様は二人ずつ組ませました。古代社会では一人旅は危険でしたから、お互いに励まし助け合うためという現実的な理由と、真実な証言かウソの証言かを見極めるには2人以上の証人を必要とするユダヤ教の戒律があったからです。イエス様の念頭にあったのは、弟子たちによってこれから形作られていく教会は、「協同で神に仕える群れ」であるということでした。イエス様は「二人でも三人でも私の名によって集まるところに、私はいる」(マタイ18:19-20)と「共に」という言葉が明示しているように、祈りと交わりにおける「共同性」を強調されました。礼拝も、祈りも、交わりも、伝道も「共同性」が教会を教会たらしめているのです。
2. 杖以外なにも持たず
二つ目の大きな特徴は8節以下にあるように、杖1本以外何ももたずに行けという指示でした。食料も、袋も、お金も、着替え用の下着も携行することが許されませんでした。日帰り旅行ならまだしも、長期旅行になる可能性もあります。なぜこんな軽装で旅行するのでしょうか。現代人なら重い大きなトランクを引っ張って、リュックには詰めるだけ多くの荷物を詰め込んで背負っていくことでしょう。
第一の理由は、「緊急性」のゆえです。イエス様は弟子たちをすぐさま派遣させました。時間をかけて十分用意させることはできたかもしれませんが、「時が満ちた。神の国はすでに来ている。悔い改めて福音を信じなさい」とイエス様は宣教を始めるにあたって宣言されたように、神の国はまだ完成していないがもうすでに始まっている、この終末的な「緊張感」を弟子たちがしっかり自覚するためでした。人間のいのちも同様です。明日、終わりが来るかもしれません。「いつまでもあると思うな親と金といのち」と言いますが、私たちの人生は不確実性の上に揺れ動いて存在しているのが現実です。「明日がある、あさってもある。そのうちに」というほど安定したものではありません。1か月後に救急車を予約しておくという人などはいません。ある意味で、伝道には常にこうした緊急性と緊張感が必要なのではないでしょうか。
第二の理由は、教会が人々に与えることができるものは世の富ではないことを知らしめるためです。ペテロとヨハネが祈るためにエルサレムの神殿に出向いたとき、美しの門の前で生まれながら足の不自由な男の人が施しを求めていました。男は何かもらえると期待していましたが、ペテロは「金銀は私にはない。しかし私にあるものをあげよう。イエスキリストの名によって歩きなさい」(使徒3:6)と命じ、彼の手を取り立ち上がらせると、たちどころに歩き出し、神を賛美し続けました。金銀どころか、彼は新しい人生を手に入れたのです。何物にもかえがたい未来を得たのでした。過去のみじめさから失意と嘆きの人生から、神を賛美し踊る人生へ解放されたのでした。嘆きは踊りに変わる(詩30:11)。新生の喜びです。ペテロとヨハネがもし豊かに富んでいたらその金銀で彼に一時の施しができたであろうが、彼らにはイエスにある永遠のいのちの富しかなかった。彼らの何もない貧しさが、キリストにある真の豊かさを惜しみなく与えることができたのです。
「あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」(2コリ8:9)。キリストの貧しさとは、十字架の死を意味しています。神の御子であり栄光の主でありながら、すべてを捨てて、命までも惜しまず、罪びとの救いのために十字架で死なれました。教会はこのキリストの十字架の貧しさの中に、豊かないのちと神の栄光を見る共同体なのです。物質的富と繁栄を約束する見せかけの教会は、真の教会の姿ではない。アメリカロサンジェルスのクリスタルカテドラと呼ばれるガラス張りの大聖堂があり、毎週繰り広げられる劇場のような礼拝はテレビ放送で全米中に配信されています。私も訪問して圧倒されました。しかし今は、経営破綻で閉鎖されたと聞いて驚きました。教会はこの世的な富の上に築かれるのではなく、キリストの貧しさの中、飼い葉おけの中に、カルバリの丘の十字架の丘の上に、十字架の死にまで無になって歩まれたキリストの貧しさの中にこそ建てられるのです。
主イエスは「杖1本」で十分と言われました。名もない無力な羊飼いであったモーセは、手にした杖一本で、エジプトで奴隷生活を強いられていたイスラエルの民を導き出しました。神の御言葉と御霊の導きに信頼して歩むこと、これが主の弟子と教会の持つ「神からの杖」ではないでしょうか。杖がいるのは老人だけではありません、試練の多いこの人生を歩むために、私たちも心の杖、魂の杖が必要なのです。この世の杖は折れるが、神からの杖は決して折れることはありません。
詩 37:5 あなたの道を【主】にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。 箴言3:5-6「心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
3. 宣教の3つの働き
弟子たちは、12節にあるように「悔い改めに至る福音」と宣教し、人間を非人間化し社会を混乱と破滅に陥らせる「悪霊」から人々を解放し、油を塗って「病人を癒し」(未完了形)ました。
教会が宣教する福音は、単なるありがたい教えではなく、「悔い改め」すなわち「人生の方向転換」へ導く力を持っています。神様抜きの人生を抜本的に見つめなおし、偶像の神々ではなく真の天地の造り主なる神とそのひとり子イエスキリストを信じて、新しく生きる人生路線へと切り替えることができます。ルカ10:5では、迎え入れて下さる家があれば、「まず平安がこの家にあるように」と言いなさいと教えています。シャローム、神の平安を祈ることを意味しています。御国の福音は、神のシャロームを届けること。家の中が争いや不和や憎しみ合いで戦場のようになっている家庭も少なくありません。ハウスがあってもホームがない淋しさに満ちています。必要なのは富や豊かさではなく、神のシャローム、魂の平安ではないでしょうか。
悪霊は神と人、人と人を分断し、対立させ、争いと憎しみと暴力の連鎖へと巻き込み、差別、偏見を世にまき散らし、人間をモノ扱い、商品化してしまう社会を造り出します。聖霊はサタンの闇から解放し、真理と神の恵みの世界へと導きます。人間が人間として尊敬され、愛され、本来の自分を回復していくためにサポートすることも教会の大きな働きといえます。弟子たちは油を塗って病気を癒しました。イエス様が「油を塗って」病気を癒されたという記事は聖書の中にありませんが、イエス様はつばで泥をつくり盲人の目を開かれたことはあります。つまり癒しのために「資源」が用いられたのです。病人のためのさまざまな医学・薬学や医療技術、高齢者や障碍者のための福祉制度や支援技術、これらも教会の福音宣教の大切な一部です。なかでも祈りは医療者が必要とする霊的な資源ではないでしょうか。クリスチャンドクターやナース、作業療法士、理学療法士、介護士たちの働き人がさらに増え、活躍できるように祈っていくことは、神のみこころにかなうことです。
青山学院大学の関田寛雄教授は「医療や社会福祉が宣教の領域から除外されてきた時代は終わった。「悲しみの人で病を知っていたお方。誠に我々の病を負い、我々の悲しみを担ったお方 」(イザヤ53:3-4)が、我々の救い主である以上、彼の業を継承する教会はこの働きに本来的に関わらしめられているのである。」と注解書の中で語っています。
さあ、私たちもそれぞれが置かれた立場、持ち場で、御国の福音を語り、神に愛されている祝福とシャロームを伝え、病める人、傷ついた人への癒しの手を差し延ばしていきましょう。
私たちもまた現代に生きるイエス様の弟子であり、遣わされた御国の働き人なのですから。
「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」(1ペテロ2:9)
