【福音宣教】 主イエスの愛 奉仕と休息

主イエスは、12弟子たちをガリラヤ地方 全土に遣わしました。預言者ヨハネがついに領主ヘロデ・アンティバスによって、首をはねられ殉教の死を遂げた悲報が伝えられましたが、イエス様と弟子たちはガリラヤ全土に神の国の福音を宣べ伝えました。時が良くても悪くても、御国の福音は宣べつたえられるべきだからです。イエス様は12弟子の派遣に続いて、72人の弟子たちを遣わされたことがルカ福音書には記されています(ルカ10:1-15)。 その時、主イエス様は「収穫は多いが、 働き手が少ない。 だから収穫の主である父なる神に、働き手を送ってくださるように祈りなさい」(2)とも命じています。私たちは今の時代、伝道が難しい、困難だ。日本人は心が頑なだ、任天堂ミュージアムには人がいっぱい来るが、教会には来ないetc、いろいろと言い訳をしますが、主のお約束は「収穫は多い」です。 現実だけを見て失望するか、主の約束を信じて希望を抱いて、前に向かって歩むか いつの時代も教会は問われていると思います。

1.  彼らは帰ってきて 報告をした

遣わされた弟子たちは再びイエス様のもとへ帰ってきます。 これは2000年前も今日も変わらない霊的な原則であり、呼吸のようなものです。 行きっぱなしで戻ってこないなら、これは行方不明者。遣わされる ことなく留まり続けているならば、引退した機関車が展示されている交通博物館のようなものです。主から遣わされ、また主のもとに戻ってくる、この繰り返しこそ霊の呼吸。この霊的な呼吸は教会の生命です。さらに、着目したいのは、主イエスは戻ってきた弟子たちの「報告」を、喜びを持って聞いてくださっていることです。それゆえ教会は遣わされた者たちの証しを大切にし、またその報告を大切にします。宇治バプテスト教会では、礼拝の最後に、報告の時がありますが、これは決して付け足してはありません。 大切な礼拝の一部であり、再び遣わされるための豊かな動機付けの時ともなっています。単なる「お知らせ」ではなく、一週間の「宣教報告」の時でもあるのです。「来週また主の御前でお会いしましょう」と、 最後に牧師が語るまでは、全てが礼拝だと受けとめたいものですね。さて、遣わされた12弟子たちはどんな思いでイエス様のもとに帰ってきたのでしょうか。先ほどのルカの福音書の記事から推測できることがあります。

72人の弟子たちがイエス様によって遣わされた時、彼らは「喜びながら」(17)帰ってきたと聖書は記しています。 その時、イエス様は「「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって喜んではよろこんではいけません。ただ、あなた方の名が天に記されていることを喜びなさい」(ルカ1017) と彼らを諭しました。弟子たちが、主イエスの権威と聖名によって御国の福音を宣言するとき、病が癒され、悪霊も追放されました。これほどの体験は驚きであり感動的です。しかし有頂天になりやすい危険なときでもあります。人間誰しも自分自身の力や業を誇れば、傲慢になりやすいものです。主イエスはいつでも「働き」ではなく「存在」そのものを喜びとするように教えています。 どんな大きな 働きよりも、天にその名が記されているという「恵みの事実」を喜びなさいと教えているのです。

クリスチャンとして何ができるか、何ができないかということは主イエス様にとって問題ではありません。 イエス様は「私たちの行い」DOINGではなく、新生した「私たちの存在」BEINGをなにより喜んでくださっているのです。クリスチャンとされていることを、神様からの恵みとして、大いに喜び、そして誇りとし、しっかりと握りしめていなさい。これが十字架にかかり生命まで捨てて、私たちを罪の中から贖ってくださった主イエスのこころであり、神の愛のこころなのです。

ビートたけしさんが「生きてるだけで大したもんだ」と言いました。明石家さんまさんも「生きているだけで 丸儲け」と。自分の娘に「い・まる」と名づけました。私たちは、行いではなく恵みによって神の子とされているこの特権を誇りとし喜びとしたいものです。

2 寂しいところへ行って休みなさい

さて、12弟子たちが戻ってきたとき、イエス様は彼らに休みを与えるため、「人里離れた寂しいところへ出て行って、しばらく休みなさい」(31)と、呼びかけまし。主イエスの弟子たちは奴隷ではありません。 馬車馬のように死ぬまで働き続けることが求められているわけではありません。神の国のため十分奉仕をしたならば、同じだけ十分休息しなさいと、イエス様は弟子たちに対して優しく配慮されました。 肉体の癒し以上に、魂の癒しと安息を与えるためでした。

今は世の中の一般企業でも働き方改革が進められています。どんな事業所でもストレスチェックを実施し、社員の健康状態を適切に管理しなければなりません。管理職の仕事は部下に仕事をさせることではなく、部下が 安全・安心して仕事ができるように配慮することが能力として求められています。2000年経って社会がようやくイエス様のお心に近づいてきたとも言えます。

さらに、旧約聖書を見ますと、イザヤ書6章に、最高位の天使セラピムが登場します。この天使は6枚の翼を持ち、2枚の翼は顔を覆い、2枚の翼は空を舞い、 残りの2枚の翼は足元を覆っています。つまり力強く羽ばたき、エネルギッシュに活動するためには、顔を覆う翼つまり神を礼拝すること、足を覆う翼、すなわち神の御前に安息を豊かに得ること。 このことが象徴的に込められているのです。 礼拝と奉仕と主にある安息は三位一体です。これこそが真の意味での働き方改革といえるのではないでしょうか。 神殿の至聖所には、神の臨在と栄光が満ちている契約の箱が置かれています。その契約の箱のふたの両脇には、最高の天使であるケルビムの黄金の像が向かい合って置かれ、ケルビムは伸ばした翼で契約の箱のふた(贖罪所)を覆っています。神と人に仕える天使の究極の奉仕は、これもまた「礼拝」ではないでしょうか。カルバリの丘の十字架でまったき犠牲の血を流され、よみがえられた主イエスキリストを礼拝すること、これこそがもっとも麗しい奉仕なのです。

50年前、私たちが 枚方教会の青年会のメンバーとして教会で奉仕してい時代は、「あなたは24時間働けますか」と語り掛ける栄養ドリンクのコマーシャルが大ヒットした時代でした。礼拝の後には午後から路傍伝道、チラシ配布。午後からは役員会、さらに7時からは夕礼拝が2時間、聖書研修会がたっぷりというのが、ごくごく普通のリズムでした。学生の身分の私たちは時間がありましたが、働いている壮年層たちにとっては、大変だったと思います。奥さんから教会の牧師に、「主人を早く家に帰してください」と苦情が出るほどでした。でもそれほど疲れを覚えていなかったのは、なぜだろうかとふと振り返って考えることがあります。その答えの一つは祈りだと思います。早朝祈祷会があり、夜の祈祷会があり、婦人会の祈り会があり、何かがあれば教会の2階にある小さな塔の中につくられた祈りの小部屋で、24時間の連鎖祈祷などが開かれました。栄養ドリンクを飲んだり、美味しいものを食べて温泉に入って、休息を得るというのではなくて、神様の前に静まって、祈りを通して恵みを受け、霊的な安息を得ていたからではなかったかと思います。               
さらに、もう1つ理由を見つけることができます。それはイエス様の心をわが心としていた、イエス様の心を教会の心としていたからであったと言えます。主イエスのこころは以下に明らかです。

2.  羊飼いのいない羊を憐れみ

結果的に イエス様も弟子たちも静かな場所に行って祈ること、休息と安息を得ることはできませんでした。 もうすでにその場所に群衆が先回りをして、イエス様が来るのを待っていたからです。 そしてあっという間に押しかけた人々にイエス様も弟子たちもすっかり取り囲まれてしまいました。ところが弟子たちが、文句を言ったり、つぶやいたり、「たまにはゆっくり休ませてくれよ、本日閉店」などと言ったという記事はどこにも記されておりません。むしろイエス様は彼らを見て「羊飼いのいない羊たちのようであるのを深く憐れんだ」(634)と記されています。この「憐れみ」という言葉は、聖書の中の非常に重要なキーワードの一つです。「内臓」を意味する言葉で、「はらわたのそこからの同情、はらわたが引き裂かれるような深い痛み」という意味が込められています。

羊は羊飼いがいなければ一人では生きていけない存在です。旧約聖書では、「羊飼い」は神の民を導く指導者を指しています。イエス様の時代には、ガリラヤ地域を治める領主ヘロデがいました。ユダヤ全土を治める総督ピラトもいました。エルサレムの神殿には大祭司も祭司長たちも、町や村の会堂には、パリサイ人の指導者たちも、律法学者たちもいました。けれども、彼らによってユダヤの民が安らぎ、喜び、平安を持つことはできませんでした。全く養われていない状態でした。だからこそ、イエス様は寝食を忘れて、彼らに神の国の福音を語り続け、病める者には癒しを与え、蔑まれている者たちには信仰の喜びを与え、社会から見放された人々を招き、御国の民、神の民の交わりの中に一人一人を迎えてくださったのです。

弟子たちも、イエス様のこの愛の心を理解していたから、不平も不満もなく奉仕に励むことができました。イエスと共に神と民に仕えることが喜びだったからです。

クリスチャンにとって本当の休息、それはどこにあるのでしょうか。温泉に入ってゆっくりすることが休息とはなりません。グルメ族のように行列に並んで美味しいものを食べる。それもやはり休息にはなりません。イエス様の心を自分の心として祈ることの中に、真の安息と平安と喜びが満ちるのではないでしょうか。

                             収穫は多いが 働き手は少ない だから 収穫の主に働き手を送ってくださるように祈りなさい
                   そして彼らが羊飼いのいない羊のように羊のようであるのを深く憐れみ、いろいろと教えられた