【福音宣教】 5000人の給食の奇跡

「彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた」(マルコ6:34)

主イエスは多くの奇跡をおこないました。丘の上の青草の上に座っている5000人の群衆に5つのパンと2匹の小魚を分かち与えたこの「パンの奇跡」は、4つの福音書全てに記されている唯一の奇跡です。つまり12人の弟子たちにとっても生涯を忘れられない大きな感動であったことを意味しています。では、どんな背景で、どこでどのように行われたのでしょうか。

1.    羊飼いのいない羊のように

イエス様から派遣され、戻ってきた弟子たちに十分な休息を与えようと、イエス様は 人里離れた辺鄙なところへ船で出かけました。ところが多くの群衆が先回りをして待ち受けていたのです。 イエス様はこのおびただしい群衆を見て「羊飼いのいない羊のように深くあわれました」(34)。羊は羊飼いがいなければ一人では生きていけない、弱く力のないそして迷いやすい存在です。旧約聖書では羊飼いは民を導く指導者や王を象徴する言葉として用いられています。ところが ユダヤの国はローマの総督ピラトによって支配され、ガリラヤ地方はヨハネを首をはねた領主ヘロデアンティパスが治め、エルサレムの神殿では両替商人たちに営業許可を与えて金儲けをしている祭司階級が存在し、律法学者たちは重荷を民に与えるばかり。どこにも民を導き、養う真の王 真の羊飼いがいない有様でした。イエス様は深く憐れみ、彼らを青草が生い茂る丘へと導き、神の国の恵みの御言葉を語り、彼らを養おうとされたのです。それはまさに 詩篇231節の言葉そのものであったと思われます。羊飼いは羊たちを 緑の牧場にさせ、憩いの右側に伴われるお方なのです。

「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます」(詩篇231-2)。

神王なき時代、真の羊飼いのなき時代に、主イエスは5000人以上の群衆を青草の生える丘の上に導きました。彼らは主イエスを通して、神の国の希望という父なる神様からの恵みのメッセージを聞き、霊的な必要を満たされつつ、我を忘れ、時を忘れて主イエスの語る言葉に聞き入っていました。

2.    5つのパンと2匹の魚

夕方になり、弟子たちは 群衆を解散させて、各自で必要な食べ物を近くの町や村で得るようにと提案しました。 食事までお世話をすることは不可能だと責任を回避したわけです。ところがイエス様は「あなた方が夕食を出してあげなさい」と命じました。こんな辺鄙なところでどうして 5000人もの人々に食事を提供することができるのですか、そんなことはありえない と、弟子たちはできないことの条件ばかりをあげました。するとイエス様は「手元にパンはあるのか、確かめてきなさい」と 尋ねました。アンデレが、「先ほど少年がイエス様に差し上げたいと、5 つの大麦のパンと塩漬けした小魚 2匹を持ってきましたが、これが一体何の役に立つでしょうか」と答えました。 私たちはいつも計画を立て、計算をして、「できない」と判断をしがちです。もちろん、計画性は大事ですが、それだけが全てではありません。 弟子たちは常識的に計算して動きましたが 、イエス様は父なる神への信仰と信頼を行動の基礎に置かれたのです。捧げられた小さなわずかなものを感謝し、天を見上げ神の祝福を祈り求めました。 差し出された手元にある小さなものであっても、神の祝福を祈り求めることから全て大きなことが始まるのです。
3.    50人ずつの組に座らせた

イエス様は5000人の群衆をまず12弟子の数に合わせ、12の組に分け、1組に1人ずつ弟子たちを配置しました。これで一組約400人から500人のグループが12組みできたわけです。そしてそれぞれの組をさらに100人ずつ、最終的には50人ずつ 8つのグループに分けました。 小さく分ければ全ての群衆にお互いを知り、理解し、交わり、助け合えることができるようになるからで。これは「天国の計算」です。こうして準備が整いました。青草の上に座っている群衆は、もはや烏合の衆の集まりではなく、12人の弟子たちに導かれた、12の組の共同体としてイエス様を仰ぎ見ています。これは 旧約のイスラエル12部族と同様、新しい神の民の共同体としての教会の原型でもあると言われています。神の国の希望と恵みを語るイエス様は、具体的な目に見える形で御国の新しい共同体の姿を、青草の生える丘の上にお示しになったのです。すばらしい光景であったと思います。弟子たちにとっても決して忘れられない感動だったことでしょう。

こうして、イエス様が12弟子たちにパンと小魚を渡されると 、次々と全員に分け与えられたというのです 。分ければ減るのに一体、何が起きているのでしょう。誰にも分かりません。現代のスローモーションビデオでさえ捉えることができないかもしれません。しかし、そこに集った全ての者たちに無限にパンと小魚とが分け与えられ、全員が「満ち足り満腹した」(42)事実は否定できません。どうしてそれができたのか、わかりません。わからなくてもいいのです。父なる神に主イエスが祝福を願い、祈り求めてくださった。主イエスがそれを成し遂げてくださった。それで十分ではないでしょうか。主イエスが「それを成し遂げてくださると信じる」こと。「主がそれをなしとげてくださったと賛美し、証しをすること」が私たちに与えられたすべてなのですから。 

4.  パンの奇跡の意味

パンの奇跡は、神の国の福音宣教と深く関連しています。飼う者がいないイスラエルの民は、イエスに真の羊飼いの姿を見いだすことができたのです。イエス様は神の国について教え、 神の民を導き、新しい神の民の共同体の中に招き入れてくださいました。

「私は良い羊飼いである」(ヨハネ10111427)とのイエス様のことばがリアリティをもって私の胸に響いてきます。

飼う者のいない羊たちが、まことの羊飼いを見いだすことができたのです。 真の王を見いだすことができたのです。 まことの救い主をここに見出したのです 。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」((1011)とイエス様は言われました。この時点では まだイエス様はご自分の十字架の死については触れていません。しかしやがて、カルバリの丘の十字架の上で 、主イエスは罪の身代わりとなって命まで捨て、イスラエルの民を罪と死と滅びと律法の呪いから贖い出し、墓をむなしくされ3日後に復活し、 永遠の命の希望を与え、神の御国へと招き入れてくださったのです。

丘の上のパンの奇跡は聖餐式の一つのひな型でもあると言われています。主の御言葉の恵みに感謝し、主の死と復活の希望に信頼をおいて生きる聖餐式にこの朝も共に預かってまいりましょう。主は私たちの羊飼いとなってくださったのですから。

今回 準備をしていてある証し(岡本不二夫師)を読みました。ドイツ人の婦人宣教師が日本に使わされて20年間、大阪の釜ヶ崎でホームレスの人々への伝道と奉仕に励みました。ドイツに帰国してからその体験談をもとに「希望の街」という本を著わしたそうです。その本の中で、彼女は「初めから何か大きなことをしようとしていたわけではありません。小さな第一歩を踏み出しただけです。 その第一歩から次の第歩、 第歩へと導かれてきました。日本人は10歩先のことまで考えてしまう。その10歩ができそうにないから最初の一歩もやらない。しかし、私の信仰というのは最初の一歩を「やったらいいじゃないか」、第一歩ができたら、次の一歩のための力も知恵も可能性もでてくるという生き方です。」ということを記していました。

羊飼いである主に導かれて、おひとりひとりが、ご自身の第一歩を歩みだされますように、願ってやみません。