【福音宣教】 しっかりせよ、恐れるな、わたしである

「イエスは弟子たちが向かい風ののために漕ぎあぐねているのを見て、夜明けが近づいたころ、湖の上を歩いて彼らの所へ行かれた」(マルコ6:48)


今朝も マルコの福音書を通して 十字架で死なれ 復活され今も私たちと共におられる主イエスキリストとお会いしましょう

1.   山に登って祈る 主イエス

5000人の給食の奇跡を行った後、イエスは弟子たちだけを先に船に乗せて ガリラヤ湖の北東のベッサイダへ送り出しました。弟子たちを群衆から引き離して、休息を与えるための配慮でした。 一方、主イエスは群衆を解散させた後、ただ一人、山へ退かれて祈られました。主イエスは祈りの人でした。マルコ1:35に記されている通り、祈るイエス様の姿は、十字架の死に至るまでつらぬかれています。主イエスにとって父なる神の御元で、一人祈ることが、最も豊かな休息の場であり 魂が恵みと命に満たされる時でした。主イエスは、明け方の時近くまで ほぼ徹夜の祈りをされていたと思われます。榎本保郎牧師は「朝の15分があなたの人生を変える」とアシュラム運動を通して語り続けられました。

2.   ガリラヤ湖で逆風のため船をこぎ悩む弟子たち

一方、夕べにベツサイダーを目指して船をこぎ出した弟子たちですが、ガリラヤ湖特有の強い東風が逆風となって、漕ぎ悩んでいました。 すでに10時間近くかかっているにもかかわらず、湖の半分ほどで立ち止まり、前進するどころかむしろ後ろへ後ろへと押し戻されているような状況でした。 ガリラヤ湖を船で渡るときに、つの試練があります。船を転覆させてしまうような突然の暴風に襲われること、もう一つは漕ぎ手を悩まし、船を押し戻す強い向かい風です。 私たちの人生にも このつの嵐が襲ってくるのではないでしょうか。突然の嵐と目的を妨げる逆風。ある日突然、がんの告知を受け余命数ヶ月と宣言を宣告を受けるような試練、大学受験の当日の朝、飲酒運転の上、信号を無視した車にはねられて帰らぬ人となってしまった高校生、 順調に進んでいた事業が突然倒産して無一文になり、借金取りに追われる日々となることなど。 かと思えば、今日の弟子たちのように長時間に及ぶ逆風で行く手をはばまれ、漕ぎ悩み 心身ともに疲労困憊状態に陥ってしまうようなことも経験します。解決の目処が立たない 出口が見えない 先に希望を持つことができない これもまた辛い経験といえます。

3. 湖の上を歩いて弟子たちのもとに来てくださる主イエス

イエス様は逆風の中、漕ぎ悩む弟子たちのもとに、湖の上を歩いて来てくださいました。ところが弟子たちはそれがイエス様と気がつかず、「幽霊だ」と思って怯え 恐れ 叫びだしたのでした。まさか水の上を歩いてイエス様がやって来るとは想像だにしていなかったことでしょう。ありえないことでしたから幽霊が来たと驚いたのも無理ありません。

真っ暗闇の中、弟子たちにはイエス様が祈られる姿も、近づいて来られる姿も見ることはできません。一方、イエス様は弟子たちが逆風でこぎ悩んでいることが見えていました 。困難や試練の中でイエス様を見ることができない弟子たちと、そんな弟子たちを祈りの中でよく見ておられるイエス様との対比がここに描かれています。 これは私たちとイエス様との関係を表しているようです。

私たちの信仰は「嵐の中で真価が問われる」と言われています。 思うように事が進まない、祈ってもなかなか道が開けない。死に至るほどの危機的な状況ではないけれども、真綿で首を絞められるようなつらく長い病との戦いなど。 ついつい神が本当におられるのか、 自分の信仰が足らないのか、、神が私たちを見放したのか、この道は神の御心ではなかったのか、などなど。 心が乱れ、疲れ果ててしまうような試練にもしばしば直面します。 私たちの側から見えるのは、先が見えない暗闇と風と波の不気味な音だけ。しかしイエス様の側からは私たちの姿がよく見えていて、決して私たちを見捨てることはなさらない。主は「恐れるな、私である」と声をかけてくださるのです。

4.   恐れるな、わたしである

この言葉はかつてモーセが、神の名を尋ねた時に、神が啓示してくださった言葉です。 ヘブル語で「私は在ってあるもの」、 ギリシャ語で「エゴ・エイミ」、神の聖なる名、神の永遠の呼び名です(出エジ3:14)。 イエス様がこの言葉を使われる時には、私こそ神であり、救い主であるとの宣言なのです。水の上を歩くことなど人間にはとうてい不可能です。神のみがそのことを成し遂げることができます。ヨブ 9 8節に、「神は自ら天を広げ 海の高波を踏み砕かれる」と記されている通りです。主イエスが風を叱り、波を鎮めるお方(4:35以下)であるばかりでなく、波の上を歩かれる。つまりご支配されるお方であることを意味しています。ユダヤ人にとって「海」 それは恐るべき「虚無と死の領域」と考えられていたそうです。誰もそれを支配することはできません。 この世が神の国となって新しい天と地が始まる時に初めて、「海もなくなる」(黙21:1)のです。 つまり、虚無も罪も死も全てが勝利者であるイエスのもとに、統べ治められて行くのです。これはまさに勝利者なるイエスを現わしている言葉といえます。

5.  船に乗り込み、ともに進まれる主イエス

主イエスは「弟子たちのそばを通り過ぎよう」(48)となさいました。 困っている弟子たちを助けに来られたのではないでしょうか。 

主イエスはまずガリラヤ地方の伝道、やがてエルサレムを中心とした伝道、 ついにはカルバリの丘に立てられた十字架の贖いの死、そして神の栄光に満ちた復活へと、 父なる神の救いのご計画のただ中を、強い意志を持って歩み続けようとされています。 復活された後でも、エマオの途上の人の弟子たちが、イエス様にお泊りくださいと願わなければ、イエス様はなお先へ旅を続けようとされました(ルカ24:28)。神の御国の完成を目指して、イエス様はとどまることなく、今日も明日も常に歩み続けられます。

だからといって、イエス様は恐れと不安の中で苦しみ、悩む、不信仰な弟子たちを決して見捨てたりなさいません。 いつでも「恐れるな、私である」(6:50)と声をかけ、船に乗り込み、目的地まで導いてくださるお方です。弟子への変わらない愛のみが、主イエスの歩みをしばしとどめるのです。

ガリラヤ湖の嵐を鎮め、 水の上を歩まれ、 「恐れるな、私である」と言われる主イエスこそ生ける神、 信じる者たちの人生を共に歩んでくださる救い主であることを覚えたいものです。   「わが目を開きて、さやに見せたまえ」(新聖歌38番)と歌われているように、困難な時にこそ、そこにおられるイエス様を見せていただきたいものです。

病に倒れ懸命にリハビリをされている姉妹をお見舞いに行った時、この言葉をプレゼントとしてお伝えし、ともに祈りました。 苦難の中でしっかりとつかんで欲しい「いのち御言葉」だからです。「しっかりしなさい、安心しなさい、私である 恐れるな」と。

主は私たちを見ておられます。 たとえ、私たちが主を見ることができない闇の時であっても。主は私たちが心鈍く、不信仰で、主の神たることを信じられないような時にも、決して弱い私たちをお見捨てにはなりません。主は「しっかりせよ、恐れるな、私である」と、 繰り返し繰り返し語りかけ 私たちの弱さを励まし、強めてくださり、 進むべき目的地、ゴールに至るまで、導き続けてくださるのです。

5000人の給食は羊飼いのいない羊たちを養い、導かれるまことの羊飼いなるキリストを現す象徴的な奇跡でした。 波の上を歩まれる主イエスもまた、虚無と死の恐れに勝利されるまことの王のお姿でした。改めて詩篇23篇4節、「たとえ、死の影の谷を歩むとも 私は災いを恐れません あなたが私と共におられるからです」との、み言葉を心にしっかり留め、主のことばを覚えましょう。「しっかりしなさい、恐れるな、わたしである」と。