
「そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」すなわち「開け」と言われた(マルコ7:34)
今日は午後から音楽祭が開催されます。素晴らしい音楽を聴いて楽しむことができることは幸せなことです。神様に感謝したいと願います。午前中はまず主の言葉に耳を傾けましょう。 今日の主題は「耳が開かれ、神の御声を聞く」 です。
1. デカポリス地域での福音宣教
イエス様はユダヤの国境から20kmほど離れた地中海沿岸のツロの町に行かれ 、ギリシャ人の母親と病の娘を救いに導かれました。その後、南に下ってデカポリスを経てガリラヤ湖北部に戻って来られました。すると早速、耳が聞こえず、口もきけない人を、 おそらく彼の家族あるいは友人たちが、イエス様のもとへ連れて来て、手を置いて癒してくださるようにと願い出ました。彼は中途失聴者なのか、口もきけない状態から推測すると、生まれながらの聴覚障害者なのかも分かりませんが、イエス様の語るメッセージに耳を傾けることも、神を褒め称える賛美を仲間と共に歌うこともできない人でした。いわば音のない世界に生きていました。目が見えない世界と音が聞こえない世界とどちらを選ぶかと言われたら皆さんはいかがでしょうか。音のない世界で感じる孤独感、寂しさ、不安感は量り知れないものがあるだろうなと思います。コミュニケーションが取れないストレスも大きいだろうなと想像できます。聴覚障害者の事故は日本でも多発しており、遮断機のない踏切に入り込み、警報機の音がわからないため、電車に接触してしまう事故や、緊急災害時にアナウンスの音声が聞こえないために、何が起きているのかわからず一人取り残されてしまうことがしばしば起こるそうです。緊急時に手話でコミュニケーションがとれるように、手話の会のみなさんに、教えていただき、練習を重ねていければと願っています。
2. イエス様の丁寧な癒しの御業
求められているように手を置いて癒すことも、あるいは言葉だけで癒すこともできたはずですが、イエス様は彼をまず群衆の中から連れ出して二人きりになられました。群衆の中では、イエス様が彼に何をしようとしておられるのかわからないため、緊張と怖さが高まってしまうからです。イエス様の細やかな配慮を見ることができます。次にイエス様は彼の両耳に指をさし入れました。 さて、何指を使ったのでしょうか。 きっと薬指だという人がいるかもしれません。 もともと手の第4指をなぜ薬指と呼んだのかネットで調べました。薬指の力は弱くて、柔らかな動きをするため、昔 薬を調合する薬師と呼ばれる人々は薬指で薬を混ぜ合わせたのがルーツと言われているようです。また古代ギリシャ・ローマでは心臓と薬指とは血管が直接繋がっていてそこから愛が通うと信じられていたので、結婚指輪はこの薬指にはめるという習慣が生まれ、別名、輪の指 「環指」(かんし)とも呼ばれているそうです。両方の耳の穴をまるでトンネルを両側から掘り進めてぴったり真ん中で合わせて開通させるかのような仕草ですから、聴覚障害者の彼も、イエス様が何をしてくださっているのか分かったことでしょう。
さらに、長年にわたり話せなかった彼の舌に、イエス様はご自身の唾を指につけて、触わられました。唾液は汚いものだと私たちはイメージしがちですが、唾液には消化、 抗菌、口内を清潔に保ち保護する作用があると昔から言われています。 ましてや神の御子の聖い唾液にはどんな薬よりも効力があったことでしょう。
イエス様が十字架の上で釘付けにされた時、神の御子の尊い血が流されました。人間の全ての罪を贖い、過去の罪過を帳消しにし、罪の負債を免除し、赦しを与えてくださいました。「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめてくださいます」(1ヨハネ1:7)と記されている通り、そこには完全な赦しと解放が約束されています。イエス様の指先に塗られた一滴の唾が、一人の聴覚障害を癒し、長年にわたる人生の苦悩から救い、魂に安らぎをもたらすとするならば、神の御子が十字架の上で流された血潮は、どれほど多くの人々を癒し、救いを与え、永遠の神の御国に招き入れることができることでしょうか。神の御子が十字架を背負ってカルバリの丘に向かって歩まれたその途上でしたたり落ちた血、釘づけにされた瞬間に、御子の両手両足から吹き出た血潮は、どれだけ多くの人々の罪を赦し、清め そして救いに導いてくださることかできるでしょうか。その恵みと愛の大きさ深さ、広さは計り知ることができません。
さらにイエス様は天を見上げて深く息を吐かれ「エパタ」と命じられました。 エパタとはアラム語で「開け」という意味です。マルコは特別な感動を呼び起こすような時に、イエス様が日常使われた言語 アム語をそのまま用いて福音書を記しています。イエス様は天を見上げました。この所作はイエス様の力の源はいつも天の父のもとから来ることを意味しています。 神の御子だから、イエス様は特別な力を持っているとするならば、天の父を見上げる必要などはありません。イエス様はいつも、全ての力と愛といのちの源は父のもとにあり、そこから注がれてくることを自覚しておられました。何かあればすぐに自力に頼りがちな私たちですが、力の源泉は神にあることを忘れず、原点に立ち戻りたいものです。 旧約の詩人は歌いました。「私の助けはどこから来るのか。私の助けは天地を造られた主から来る」(詩篇121:2)と。どんな時にも、困難な時こそ、イエス様のように天を仰ぎ、天の泉が開かれることを待ち望みましょう。クリスチャンの力と愛といのちの源泉は、父なる神のもとにあるのです。
「 エパタ」と命じられた主イエスの言葉と共に、たちまち彼の耳は開かれ、彼の舌は解かれ、話せるようになりました。その場にいた群衆は「この方のなさったことは素晴らしい」と、口々に主の御業を賛美しました。耳が開かれ舌が解かれることは、イザヤ書35章5-6節で預言されているメシアの御業です。「神は来て、あなたがたを救われる。そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う」。まさしくメシアの御業そのものでした。ガリラヤ湖北部に接するデカポリス地方はギリシャ人を始め、多くの異邦人達が住んでいる地域です。ユダヤ人だけではなく異邦人も、耳が開かれ、神の御声を聞く恵みが与えられていることをこの出来事は示唆しています。
3 私たちはこの出来事からどんなことを学ぶことができるでしょうか。
「エバタ」「開け」というイエス様の言葉は現代に生きる私たちにそして教会に集う私たちに対して、聖霊が今、呼びかけておられる言葉のように私には思われます。人間の言葉にはすぐに過敏に反応する多くの人々がいます。しかし神のことばには無頓着です。 人のうわさ話にはすぐ耳がジャンボになりがちですが、神のことばには耳をふさいでしまう人も多くいます。世の中のニュースや音楽には、熱心に耳を傾けるけれど、神の言葉に耳を傾ける人はいつも少数です。 「あなたのみことばは私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119:105)とあるように、人生の揺るがない土台は、神の言葉にあります。この「神の真理と真実の言葉を一緒に聴こうよ」と、教会は絶えず祈りつつ、呼びかけ続ける必要があります。
聞くと聴くとは異なることを覚えましょう。クリスチャンは週一度 礼拝で説教を聞きます。果たして私たちはどれぐらいの量の神の言葉を聞いているでしょうか。礼拝説教を週1回、40分としても、一週間10080分の中の40分は、0.4%にすぎません。しかもそのうち集中力を欠いて眠っているとしたらこの数値は半減することでしょう。一度 両耳に自分で指を突っ込んで塞いでみて、音を閉ざして、そして一気に指を離してみましょう。耳の通りが良くなり、聞こえる音が新鮮な音として聞こえるのではないでしょうか。これを「霊的な耳詰まり」状態と言えます。
「信仰は聞くことから始まる」とありますけれど 心を日々新たに神の言葉を聞くことを、私たちは学びたいと思います。エパタ、主よ、私の耳を開いてください。音や声ではなく、神のことばとして私の魂があなたの御声を聴くことができるように、今日も導いてくださいと祈りましょう。
「そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのみことばによるのです」(ロマ10:17)。
