【福音宣教】  7つのかごの祝福

「人々は食べて満腹した。そしてあまりのパン切れを7つのかごに取り集めた(マルコ8:8)

先週の午後から開かれた教会音楽祭は出演者の皆さんが一生懸命、練習を重ねてください 楽しく充実した集いとなりました。ゲストの宇治ディーヴォの皆さんも教会との親しい交流が与えられたいへん感謝しておられました

1.    パンを分配するつの奇跡

1 異邦人の地域である ツロー・フェニキア、デカポリス地方を巡って、ガリラヤのベツサイダに戻って来られる途中で、イエス様は再びパンを裂いて空腹になっている人々に配るという奇跡をなさいました
回目はマルコ35節以降に記されているように 、青草の上に座ってイエス様の神の国 の福音に耳を傾け5000人ほどのユダヤ人の群衆に対して、12の組に分けてつのパンを分かち与え空腹を満たし、残りのパンくずが12のかごいっぱいになったという出来事でした。回目はデカポリス地方の辺鄙な場所、荒野とも言われていますが、青草の上ではなくて岩肌の地面の上に座ってイエス様の話を聞いていた4000人ほどの主に異邦人達につのパンを分かち与え、その残りのパンくずがつのかごいっぱいになったという奇跡でした。回目は12という数字に代表されるようなイスラエル民族、神の民を対象としており、回目は7 という完全数に代表されているように世界中の諸民族が対象となっていると理解されています。数字も場所も違いますが、パンの余りを集めた籠も実は異なっています。2回目は人が中に入ることができるような大きな籠を指しています。なにしろ、3日間にわたって彼らはイエスのメッセージに耳を傾けていたのですから、大きな食料用の籠を用意していたとも推測できます。このつのパンの奇跡はイエス様が飢え乾いている空腹な貧しい人々にパンを供給するという愛の奇跡という意味以上の重要な意味を持っています。

2 なぜ2度にわたって、イエス様がこのようなパンの奇跡を行われたのでしょうか。弟子たちにはその意味が理解できませんでした。ですからイエス様は17 と21節において「まだわからないのですか」と嘆きをもって、弟子たちに問いかけておられます。

 一連の流れを考えてみると、イエス様がツロ・フェニキヤ地方に足を踏み入れ、そこで娘の病の癒しを願うギリシャ人の母親と出会い、「イスラエルのパンの残りクズが異邦人にも与えられる」ことを示されました。続いて生まれながらの聴覚障害者に「エパタ」(耳よ、開け)と語りかけ、彼を癒されました。彼はイエス様の声をはっきり聞くことができるようになったのです。 その後回目のパンの奇跡が行われ、引き続いて8章22節以降に記されているように、ベツサイダで盲人の目を主イエスは開かれました。彼らは耳が開き、目が見えるようになり、イエス様の真の御声と真の姿を見ることができるようになりました。そしてその後、伝道に行かれたピリポ・カイザリアの地方で、弟子たちに「あなた方は私を誰と言うか」と問いかけ、ついにペテロが「あなたはキリストです」(8:29)という信仰の告白へ聖霊によって導かれたのでした。

マタイ福音書ではさらに詳しく「あなたは生ける神の子キリスト」ですと、3重の告白へ導かれたことが記されています。この告白はガリラヤ伝道のクライマックスであり、回にわたるパンの奇跡はこのクライマックスに至るための重要な舞台であったと考えられます。

メシヤの御業を預言者イザヤは記しています。「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ」(イザヤ35:5-6) これらはメシアの御業として預言されています。弟子たちは悟るべきでしたが、理解できませんでした。

ユダヤ人にとっても、異邦人にとっても、イエスは「主」であり、唯一の救い主なのです。 パウロはこの真理を解き明かしています。イエスは全世界の唯一の「主」なのです。       
 「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものの
全てが、膝をかがめ、すべての口が、「イエスキリストが主である」と告白して、 神の栄光がほめたたえられるためです」(ピリピ2:11)

先週開かれた教会音楽祭の終わりに、私は短い挨拶をしましたその中で作曲家のセバスチャン・バッハが作品には必ず「ただ神に栄光あれ」(ソリ・デオ・グロリア)と書き記したというエピソードを紹介しましたすると ディーヴォメンバーの一人が「感動しました。 そういう生き方もあるのだなあとわかりました」 と近寄って語ってくださいました

多くの日本人がイエスキリストって一体誰なんだ? 教科書で名前は知ってるけれどもキリスト教の教祖じゃないか。でも2000年前のユダヤ人が現代に生きる私たちにどんな関係があるというのだ、キリストが復活したという話はもう完全におとぎ話じゃないか等・・・ 色々と 遠巻きにイエス様のことを考えています。でもそう考えるのは日本人だけではなく、アジアの国々の多くの人々に共通する思いではないでしょうか。世界中の多くの国民が、こぞって「イエスキリスト、この方こそ、私の神、とこしえの救い主 」と神の御霊に導かれて告白をし、イエスを主と仰いで礼拝をささげる、終末の日が到来します。神の国の到来と完成の日の大いなる喜びが先取りされているのではないでしょうか。2度にわたるパンの奇跡は、世界中の人々が神の国の食卓に招かれる恵みと喜びを象徴しているのです。その中心に十字架の贖いを成就した勝利者イエスが「主」として立っておられるのです。

2 虚しく帰らせない 主イエス

1)2度にわたるパンの奇跡に共通していることがあります。彼らが夕方、主のメッセージを聞き終えて「家路に着く」前に行われたことです。イエス様はみもとに来た者たちを空腹のまま、飢えたまま、虚しく帰らせることはなさいません。「家路」 とは彼らの日常の生活の場所です

青草の上であれ 荒野の岩地の上であれイエス様を通して神の言葉を、神の御国の福音を聞く時間は、至福の時 まさに天の御国の時でもあります。でも彼らは現実の日常の生活の場に帰っていかなければなりませんそこは様々な戦いや誘惑が満ちている厳しい現実の場所です。 貧しさがあり 貧困があり 数々の病があり 人生の重荷に満ち満ちた場所です。 悲しみや涙や痛みがあり、憎しみや怒りや復讐が渦巻いている世界です。そして孤独や死が待ち受けている世界です。そこで生きてゆくためには、胃袋の空腹を満たすこと以上に魂の空腹を満たし続けてゆく命のパンが必要とされます。からっぽの魂をもってしては到底、生きていけない、すくなくとも生きにくい世界です。だから主イエスは「すべて重荷を負っているものは私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」と呼びかけておられるのです。主は礼拝者を空しく帰らせません。家路から新しく始まる日々の生活を生きるすべての力を慰めを与え、満たしてくださるおかたです。

 2)イエス様は度のパンの奇跡を行われたときに、パンを手に取り、神の祝福を祈り、感謝してパンを裂き、弟子たちを通して豊かに分かち与えられました。 ここで用いられている言葉は全て聖餐式で用いられる言葉です。聖餐式は、主イエスの十字架の贖いによる救いを表しています。 「十字架の救い」こそが、全ての人々の魂の飢え、渇き、むなしさを満たす、命の糧でもあるのです。イエス様ご自身が宣言しておられます。「私はいのちのパンです」(ヨハネ6:47-48)、「だれでもこのパンを食べるなら永遠に生きます。私が与えるパンは世のいのちのための私の肉です」(51)と。

2度にわたって最初はユダヤ人に、次いで異邦人に提供されたパンの奇跡の出来事は、現代においては、教会における「聖餐式」となり、主イエスは私たちを神の御国の食卓に招いてくださっておられるのです。聖餐式の中心は主イエスの十字架の贖いであり、復活の希望です。十字架の贖いは、地上の生涯を生きる、私たちの力であり、喜びであり、いのちであり、愛そのものではないでしょうか。すくなくとも私は十字架の主を思うときに、探し求めていた真実な愛をそこに見出し、「この愛があるかぎり、生きていける」と心に励ましをいただくことができます。

礼拝に出席するたびごとに、いつも十字架の主イエスのみ姿が私たちの瞳に映り、十字架の血潮は私たちの胸の中に熱く流れています。

ただ今から、今月の聖餐式を執り行います。喜びと感謝をもって預かりましょう。聖餐式を忘れ、主の恵みを決して無駄にしてはなりません。

「あなたがたに懇願します。神の恵みを無駄に受けないようにしましょう」(2コリント6:1)