
「それからイエスは再び両手を彼の両目に当てられた。彼がじょいっと見ていると、目がすっかり治り、すべてのものがはっきり見えるようになった」」(マルコ8:25)
アドベントの第1週の本日は、沈明姫姉妹の転会式が行われました。新しい神の家族を迎えることができ、私たちも喜びに満ちています。
さて、イエス様と弟子たちはガリラヤ湖畔のベッサイダの村に旅を終え戻ってこられました。ベッサイダはペテロ、アンデレ、ピリポの出身地でした。人々はさっそく一人の盲人をイエス様のもとに連れてきて癒してくださるように願いました。するとイエス様は彼の手を取って村はずれまで導き、そこで彼の目に両手を置いて祈り、2段階で癒されました。
1. 手をとって導かれる主イエス
イエス様はまず、彼の手を取って村の外へ導かれました。すべての良き御業は主が手をとって始められます。見えざる主の御手がそこにはあることを覚えましょう。人間関係づくりのワークショップなどでしばしば「ブラインドウォークというエクササイズが行われます。二人一組になり一人が目隠しをしてもう一人に手を取ってもらって歩くのです。最初はおっかなびっくりで怖くて歩みだせませんが、二人の間に信頼関係が生まれるにつれ、安心して歩くことができます。この盲人は決して自分から「癒してください」とイエス様に願い出たわけでもありません。神を賛美しているわけでもありません。村はずれまでの長い道を、主が手を取って導いてくださることで、信頼して安心して従っていくことができたのです。神様の恵みは、人間の努力で獲得していくものではありません。一歩一歩、主が「手をとって」導かれるところから始まることを覚えましょう。
2. 2段階にわたって目が開かれて見えるようになった盲人
一度目に主イエスが両まぶたに手をおいて癒されたとき、この盲人は、まだはっきり見ることができず、「ぼんやりと人が歩いているようです」と答えました。2度目に主イエスが両まぶたに手を置いて癒されると、「次第にはっきり」と見えるようになりましたと答えました。この主の開眼の奇跡はマルコ福音書にしかしるされていません。一度でたちまち目が見えるようにすることもイエス様には可能であったはずですが、なぜ2段階に分けてこの盲人の目を開かれたのでしょう。そこにはイエス様の意図があったと考えられます。
教会に通うようになり、たちまち聖書の教えが良くわかり、イエス様のことが明快に理解できたという人はまずいないかと思います。始めはぼんやり、おぼろげ、わかったようでわからないというのが実感だと思います。はじめはぼんやりとしかわからなかった。しかし、徐々にはっきりと見えてくるという段階を私たちも踏みながら信仰の旅路を歩みます。徐々に神の真理が、御国の栄光が、イエスのすばらしさがはっきりと見えてくるのです。
主イエスが来られるその日までは、私たちはぼんやりとしか、神の国の恵みも、神の愛のすばらしさも見ることができません。わからないことが多くあります。見えているもの、わかっていることがらはほんの一部でしかありません。地上で生きる私たちは罪ある存在として完全ではなく、神の聖い世界のすべてを見ることはできません。さらに、私たちの限りある知識をもって、永遠なる神のすべてを知りつくすことなどは到底できません。私たちが見ているものは「ばんやり」であり、「一部分でしか」ないのです。 ですから、最も大切なことは、「手を取って」導かれる主イエスに信頼することです。
「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、
私も完全に知ることになります。」 (1コリ13:12)
3. 見るべきは「主の十字架の道」
主イエスは「十字架の道を歩まれる主」をしっかりと見ることができることを弟子たちに切に願われました。盲人の目の癒しをなさったイエス様は、この奇跡の後、いよいよ弟子たちに「十字架の死の予告」(マルコ8:31)をされ、弟子たちに「自分の十字架を負って歩む」(8:34)ことを求められました。
ところが、ガリラヤ湖の嵐を鎮められた奇跡、ガリラヤ湖の波の上を歩いて来られる奇跡、2度にわたって行われたパンの奇跡という「メシアのしるし」を弟子たちはまだ理解することができませんでした。彼らは神の国の真理にまだ目が開かれていませんでした。ぼんやりとしか理解できなかったのです。そこでイエス様は「まだ悟らないのか」「わからないのか」と繰り返し、弟子たちに問いかけました。
盲人の目を徐々に開かれ、はっきり見ることができるように、主は彼を導いてくださいました。「見えない目が開かれ、見えるようになる」というこの癒しの御業は、この盲人だけに限ったことではなく、弟子たちの経験にも重ね合わせられていたのです。
イエス様がどなたであるか? どのような道をこれから歩まれるのか、彼らは目が開かれ、十字架の道を歩みだされているイエス様をしっかりと見ていく必要があったのです。
マルコの福音書を記したマルコ(ユダヤ名はヨハネ)は、使徒ペテロのギリシャ語通訳者として後に活躍をしましたが、若き日、叔父にあたるバルナとパウロによるガラテア伝道に途中でついていけなくなり、エルサレムに逃げ帰るという失敗をしました。異邦人への福音宣教、神の国の恵みをすべての人々に宣教する尊さに十分目が開かれていなかったからでした。そんなマルコを「私の愛する子」(1ペテロ5:13)とまで呼んだペテロも、若き日にイエス様への理解がまだまだ「ぼんやりしていて」いつもピント外れで、ついには三度も「そんな人は知らない」とイエス様を拒んでしまった苦い過去を負っていました。徐々にイエス様によって目が開かれていく盲人の奇跡をマルコだけが書き記している背景には、自分の弱さとそれを覆ってあまりあるイエス様の恵みの大きさと忍耐を重ねあわせたのではないでしょうか。私にはそんな思いが強くあります。
私たちクリスチャンの歩みも同じではないでしょうか。徐々に目が開かれ、イエス様が、「父なる神が遣わされた真の救い主である」ことを徐々に知り、神の永遠のご計画の全体が見えるようになってきます。十字架の道を歩まれるイエス様の苦難のメシアとしての姿がはっきり見えてきます。イエス様の十字架の贖いの尊さが見えてくると、そのあとに続く、イエス様の復活の栄光の輝きがまばゆいばかりに見えてきます。主イエスがきっと手を取って、霊的開眼へと、導き続けてくださることでしょう。
イエスから目を離さず、歩み続けましょう
「信仰の創始者である完成者である主イエスから目を離さないでいなさい」(へブル12:2)
