
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、3日の後によみがえらなければならない」(マルコ8:31)
いよいよ来週はクリスマス礼拝です。 先週の木曜日には浜岡典子先生をお迎えして ギターと賛美の集いを25名の出席者と共に、楽しく過ごすことができました。 高校時代からキラキラと輝いていた先生でしたが、高校受験のその日にお父さんを交通事故で亡くし、受験できず中学浪人をし、大きな悲しみと苦労を重ねていたことをお話を通して初めて知りたいへん驚きました。どんな苦難も苦労も神様の御手の中にあるならば、こうして最善へと導いてくださるのだなあと改めて思いました。
苦難や苦しみといえば、だれにも理解されず、むしろ嘲笑され、あざけられ十字架の道をただ一人歩まれたという点において、主イエス様は最も多くの苦しみを背負ってくださったお方であると言えるのではないでしょうか。
1. 予告された十字架
ペテロは「あなたはキリストです」(マルコ8:29)と、イエス様に対する信仰の告白をしました。 すると イエス様は「ではその救い主がこれから歩もうとする道をあなた方に教えてあげよう」とばかり 31節でご自分の苦難と死について語られたのでした。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、3日の後によみがえらなければならない」と。
びっくりしたのはペテロでした。イエス様を脇に引き寄せて「そんなことはありえません。メシアが殺されて死ぬなど考えられないことです。私たちの夢を砕かないでください。みんなあなたがユダヤの国を再建してくださる偉大な王、勝利者なるメシアだと大いに期待しているのですから」とばかりに、イエス様を諌めました。するとイエス様は「黙れ、サタンよ、退け」とペテロを厳しく叱りつけました。 サタンの最大の働きは人の目から十字架の救いを覆い隠してしまうことです。特に罪人たちの目から十字架の 十字架の恵みを覆い隠してしまうことです。ある宗教は「十字架で死んでしまうキリストなど誰も救うことができないではないか」と十字架を否定します。ある宗教は「十字架の形ではなくてキリストは杭に釘付けされたのだ、キリストは神ではない」と、キリストの十字架の救いを不完全なものと言い切ります。もし私がサタンの手下だったならば、世界中に金や銀で作った十字架をばらまきます。女性たちはアクセサリーにして身に着けるでしょう。そうすると十字架の本当の意味がだんだんと薄れてきてしまい、単なる「きれいな装飾品の一つ」に変わってしまうからです。
神の御子が罪人たちの罪を赦すために、十字架で死なれたことなど、無頓着になってしまうことでしょう。サタンが最も恐れ、決して近寄ることのできない場所は世界中でただ一ヶ所、カルバリの丘の十字架の下なのですから。
2. 神の永遠のご計画と必然性
イエス様は「死ななければならない」と言われました。英語では「MUST」が用いられています。イエス様の十字架は神の永遠のご計画の中のマスト、必ずそうならなければならない出来事でした。 これを昔から神の必然性・ディバインマストと呼んでいます。キリストの十字架の死、それは神が定められた全人類の救いのご計画の中心的出来事だからです。神は人間には自由意志を与えてくださいましたが、神の御子はただ神のみ旨にのみ十字架の死に至るまで従順に従い歩まれました。
3 十字架は3つのしるしと言われています。ペテロ 2章22から24節 をご覧ください。「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは私たちが罪から離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえにあなたがたは癒されたのです」
第1に、十字架は神の救いのしるしです。 キリストの打たれた傷の上にあなた方は癒されたとあります。癒しそれは魂の救い、そして様々な心の傷を意味しています。私たちはみな人知れず心の中に傷を抱えて生きています。そして究極においては死を恐れています。その根本原因は、神からの逃避、反抗にあります。神などいない、必要がないとばかりちっぽけな人間の力を過信し、欲と自己を中心に生きています。これを聖書は「原罪」(的外れ)と呼んでいます。そんな私たちを死と滅びから救い出し、神との交わりを回復させるために、神の御子は十字架で死なれたのでした。「キリストの打たれた傷」は十字架の贖いを指しています。主イエスは私たちが罪から解放され、神との交わりに生きるためによみがえってくださったのでした。
第2に十字架は神の愛のしるしです。
神の人類に注がれた無条件の愛は天から地に、上から下へと注がれました。
「私たちが罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神は私たちに対する愛を明らかにしておられます」(ロマ人5章6節)。値しないものに注がれる無条件の愛をアガペーの愛と言います。この神の愛を知ることによって、人間の愛のもろさ、虚しさ、はかなさに打ちひしがれた私たちの魂にも、人生の喜びが再び満ち溢れるのです。
第3に十字架は神の勝利のしるしです
「主イエスは私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義とされるためによみがえられました」(ロマ4:25) 十字架の死は十字架の死のみで終わりませんでした。 十字架の死は3日後の復活によって希望のしるしと変わりました。 習字の筆運びの3大基本といえば 止め はね はらいだそうです。もし、十字架のみで終わってしまえば、細く消えて行ってしまいますが、復活によって、とめは はね に変えられ、神の逆転勝利が起こったのです。復活を信じる信仰によって、私たちの信仰に「いのちが吹き込まれた」と言えます。
村上牧師はお父様の臨終に際し、葬儀のプログラムを話し合いました。するとお父様は、賛美は「結婚行進曲にしてくれ」と言いだしたので、それはさずがに・・と笑いあったそうです。主治医が病室から笑い声が聞こえるので不思議に思って立ち寄ったそうです。主治医は二人の話を聴いて驚いたそうですが、キリスト教の力を感じたそうです。キリスト者には「復活」の希望があるからです。
昨日、家内の親族の葬儀が行われました。最後にお坊さんが、「迷わずに仏さまに来ていただいて救っていただくことができるように、10回お念仏を唱えましょう」と言われました。「迷わずに・・・」それが正直な思いではないでしょうか。クリスチャンに「迷わず」ということばはありません。信じる者には永遠のいのちがあるのですから。主イエスは「わたしが道であり、真理であり、いのちです。誰も私によらなければ」(ヨハネ14:6)と言われました。この道を歩み続けましょう。
初穂としてキリストは復活されたのですから、キリスト共に復活のいのちに生かされるのです。どんな逆境をもはねのける「魂のちから」となるのです!!
