
「すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた」 (ヨハネ1:9)
みなさん、クリスマスおめでとうございます。子供たちの中には、クリスマスはケーキを食べてプレゼントをもらう日、あるいはサンタクロースの誕生日だと思っている子もいるようです。クリスマスはギリシャ語で救い主を意味するキリストとラテン語で祭りを意味するマスが合わさった言葉で、キリストの祭り、つまりイエスキリストの誕生をお祝いする日なのです。2025回もお祝いしてもらってるとはすごいことですね。私など最近は誕生日のお祝いも省略されて孫の誕生日祝いの付け足しになっています。うれしくもありさみしくもありです。
今から約2000年前、家畜小屋の飼い葉おけの中で産声をあげ、33歳半で十字架にかかって死なれたイエスキリストの愛と真実に満ちた生涯は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという4人の人物によって書き記されました。ヨハネは弟子たちの中で一番イエス様から愛された人物で、母のマリヤの晩年をお世話するようにイエス様から託されたほどでしたから、イエス様の人となりだけでなく、イエス様の神のひとり子としての真実な姿、ご本質についても深い理解をもっていました。ですから今日の個所で、私たちに2つの大切な真実を伝えています。
第一に、ことばは人となって私たちの間に住まわれた(14節)
ことばとは、この世界を創造された真の神の言葉であり、神ご自身をさしています。神が人となって私たちの世界に来てくださったのです。どこに来てくださったか、ユダヤの国のベツレヘムと言う小さな村の家畜小屋の飼い葉桶の中で産声を上げてくださったのでした。この方は神のひとり子、神の御子でありながら、すべての栄光をすてて、天よりくだり、人となって私たちのもとに来てくださったという「歴史的事実」を意味しています。しかも、来てくださったが、すぐにどこかへあっという間に立ち去ったというのではなく、「私たちの間に住まわれた」とあります。神ご自身が人となってこの世界に来てくださり、私たちと同じように人生の様々な悩みや悲しみや痛みや苦しみをつぶさに経験してくださった、味わってくださったということを意味しています。「この人は悲しみの人で病を知っていた。私たちの痛みを担った」(イザヤ53:3)と預言者イザヤは語っています。
人間が抱える痛みや悲しみを知らないようなおぼっちゃまやお嬢様のような人がやってきても、なんの助けにも慰めにも力にも救いにもなりませんね。あなたの隠れた涙も、人に言えず一人苦しんでいる悩みもイエス様はすべて理解しておられ、「わかってるよ」「大丈夫だよ」「安心しなさい」と語り掛けてくださいます。ですから私たちはイエス様に祈るのです。「今、こんな状況に置かれています。辛くとても苦しいです。わたしをどうか覚えてください」と。答えを求めてあちらこちら人の間を尋ね歩いても、本当の答えは見つかりません。100人いれば100通りの答えが出て、かえって混乱してしまうばかりではないでしょうか。人にわかってもらえなくても、無視されたとしても、理解してもらえなかったとしても、悲しみを知り、痛みを担ってくださったイエス様がそこに共にいてくださるのですから、それで十分といえます。イエス様のもとに来て、語り合うならば、かならず歩む道は見つけることができことでしょう。
先日、施設に入所している家内の友人が、介護士さんから冷たくされ嫌われているようで、どうしたらいいかと家内に相談がありました。私は家内に「無理にその介護士さんを好きになろうともがかず、その介護士さんにも人を嫌う権利があるのだから、それを認めてあげたらいいと思うよ」と答えました。フランスの有名なノーベル文学賞作家アンドレ・ジイドは「自分を偽ってまで人に愛されようとしないで、たとえ人に嫌われようとも、ありのままの自分でいるほうがむしろ幸せだ」と言いました。神様にありのまま愛されている自分を知れば、「失愛恐怖」に惑わされることからも救われます。
第二に、神の御子は「すべての人を照らす真の光として世に来た」(9節)と、ヨハネは救い主の役割を明らか照会しています。
「真の光として来られた」ということは、そこに深い暗闇が覆っていることを前提にしています。世界の暗闇、人生の暗闇、そして心の暗闇が確かに存在しています。
さきほどのアンドレ・ジイドは、人の心や人生を深く見つめた作家と言われています。そして彼は自分の人生観をこのように語っています。「人生はただひとり真っ暗な道をいくようなものです。手に持った一本のたいまつを頼りにして行くのです。前にも後ろにも右にも左にも人間を飲み込むような不気味な闇があるばかりです。その道がどこへいくのかもわからない、闇を突き抜けることができるかどうかもわからない。とにかく自分が手に取った「ともしび」だけを頼りに歩き続けなければならない」と。闇の中を一人で歩く‥そこには言い知れない深い孤独が存在します。様々な人生遍歴を重ねた彼でしたが、結局は一人ぽっちであるとの結論に至ったと言われています。手に持った一本のたいまつ、それは自分の地位名誉財産かもしれません、自分の健康かもしれません、自分を支えてくれる家族かもしれません。自分の信念や夢かもしれません。しかしその一本のたいまつが、急に消えてしまったとき、一体どうなるでしょう。周りはたちまち深く暗い闇に閉ざされてしまいます。代わりのたいまつを見つけるだけの時間がもう残されていないかもしれません。孤独な人生の中で、頼りになるのは自分だけだと多くの人が思っています。しかしその自分自身さえもが頼りにならなかったとしたらどうでしょう。
まことの神から離れた人生は、いつか闇に包まれます。神様から迷い出た人生、神様など知らない、必要ない、今はご遠慮しておくと神を否み続ける人生を「罪」、的外れと聖書は教えています。神を信じ、受け入れる人生態度を「信仰」と言います。
だからこそイエス様は、「わたしは世の光です。私に従う者は決して闇の中を歩くことなく、いのちの光をもつのです」(ヨハネ8:12)と真実を語ってくださいました。り、私たちを招いて、罪の赦しと神様との和解へ導いてくださったのでした。
さらに、14節ではこの方は、「恵みとまことに満ちておられた」とヨハネは語っています。神の恵みとは神の永遠の愛をさすことばです。まこととは嘘偽りごまかしのない神の真実を指す言葉です。
私たちの心の闇を照らす真の光、それは決して変わることのない神の永遠の愛、真実の愛そのものではないでしょうか。神の真実な愛、永遠の愛を知らない心もまた、孤独で暗闇に満ちた世界といえますしかし、神の真実な愛を知ったとき、孤独な心にも、闇に包まれた心にも、光が差し込んでくる不思議な体験、新しいいのちの体験をすることができます。
韓国で一つの心温まる話題がSNSで広がっているそうです。お金がなくてラーメン屋で友人がキムチチャーハンを頼んで食べているのに、一人だけご飯を注文して、無料でだされるラーメンの汁をかけて食べていたそうです。見かねた店主がそっと彼に一杯のラーメンを差し出してくれました。そのやさしさや小さな愛の出来事が感動の輪を広げているとのことです。こんな小さな愛でさえ、人々の心を動かすとすれば、クリスマスは全人類、すべての人の心を照らす真の光、まことの神の愛の真実が明らかになった日でもあるのです。
私たちの世界に、神が永遠の愛を輝かすために、そのひとり子を救い主として罪に満ちた私たちの世界に贈ってくださいました。神の御子は十字架にかかって私たちのすべての罪を担い、身代わりとなって罪の負債を償い、赦しと神との和解を与えてくださいました。十字架こそ永遠の神の愛のしるしとして、暗い闇の中に輝いています。これからも輝き続けることでしょう。
クリスマス、それは愛。
